★町を守り抜いた人々  ★希望を与えた震災イチョウ ★7万人を救った浅草公園 ★朝鮮人を救った警察署長

関東大震災(1923年)のちょっといい話
「100年前のトモダチ作戦」
レポート/山村武彦
★「関東大震災・トモダチ作戦」
 1923年関東大震災のとき、世界中(当時独立国のほとんどである57か国)から義捐金、救援物資、救助隊などが励ましのメッセージと共に続々と送られてきた。それは先進国だけでなく、中国、タイ、キューバなどの発展途上国や旧ユーゴのクロアチア、セルビア、スロベニアなど遥かに遠い東欧からも援助の手が差し伸べられ、日本を励まし復興への勇気と感動を与えた。
 中でも突出していたのがアメリカの迅速・大規模な支援であった。震災発生を知った9月1日の夜、アメリカ合衆国第30代大統領 ジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニアは、ただちに対日支援を決断。大統領令を発し、フィリッピン・マニラや清国に寄港中のアジア艦隊に救援物資を満載し日本(横浜)への急行を命じる。その時、日本ではまだ対策本部すらできていなかった。さらに大統領自らラジオを通じ全米に「困難に直面している日本を助けよう」と義捐金募集を呼掛ける。アメリカ赤十字社に500万ドルを目標に義捐金募金活動を指示。その結果約800万ドルを短時日に集め日本へ送るなど、支援国の中で最大規模の対日支援となった。これは今から100年前にアメリカが行った究極の「トモダチ作戦」である。
★関東大震災の1か月前に大統領に就任したクーリッジ
 アメリカ合衆国第30代大統領・ジョン・カルビン・クーリッジ・ジュニア(John Calvin Coolidge, Jr「以下クーリッジ」)は、1872年独立記念日の7月4日、バーモント州ウィンザー郡プリマスで農業と雑貨店の長男として生まれる。マサチューセッツ州のアムハースト大学を卒業した後、ファーストネームの「ジョン」を外してミドルネームの「カルヴァン」を用いるようになった。その後マサチューセッツ州ノーザンプトンで弁護士となる。
 以来、1899年に市議会議員、1900年から1902年まで市事務弁護士、1904年に法廷事務官、1907年から1908年まで州下院議員を1期努めた。1910年と1911年にノーザンプトンの市長に選出され、市長2期努める間に税金を減らし市の財政を建て直した。1912年から州上院議員、議長、州副知事、州知事を務めた。州知事時代1919年にボストン警察がストライキを行った時、クーリッジは州兵の出動を命じ全国的な注目を引いた。彼は後に労働組合の幹部、サミュエル・ゴンパーズに「誰にも、どこに於いても、いついかなるときも公の安全に対するストライキの権利はない」と言い放つなど、労働運動に敵対的しているとみられても彼は「公の安全は全てに優先する」という自分の信念を貫いた。演説には定評があったが、普段は物静かでサイレント・カル「寡黙なカル」とも呼ばれた。
 クーリッジは1920年に共和党の大統領候補指名を争ったが、オハイオ州上院議員ウォレン・ハーディングに敗れた。ハーディングを支持した者のなかには副大統領候補にウィスコンシン州の上院議員アーヴィン・レンルートを求める声が多かったが、結局共和党はマサチューセッツ州知事のクーリッジを指名。大統領選でハーディング&クーリッジのコンビは、民主党の大統領候補オハイオ州知事ジェイムズ・コックス&副大統領候補海軍次官フランクリン・ルーズベルトのコンビに勝利する。副大統領としては目立たない存在だったが、1923年8月2日ハーディングがアラスカで心臓発作で急死すると、翌日の早朝に大統領に昇格した。彼の家には電気も電話も通じていなかったので、クーリッジは大統領死去の知らせの伝言を口頭で受けた。日付がかわった8月3日の午前2:47、自宅の応接室で公証人である父親の立ち会いの下、灯油ランプの灯りで就任宣誓を行った。クーリッジは首都ワシントンに戻ると最高裁判所長官のウィリアム・タフトの立ち会いのもと再度就任宣誓を行った。
 その1か月後、関東大震災が発生する。クーリッジ大統領はただちに全面的対日支援を決意し行動する。陸海軍に救援出動を命じ、赤十字社を通じ全米に直接義捐金の募金を呼掛け。世界で一番早く見舞い電報を打ち、世界で一番多くの医療チームを派遣、世界で一番多くの艦船と物資を送り、世界で一番多くの義捐金を日本に送った。2011年・東日本大震災支援のとき、バラク・オバマ大統領は88年前にクーリッジ大統領が展開した『関東大震災・トモダチ作戦』を参考にしたといわれる。米国がこれほど迅速な対応ができた背景には磐城国際無線電信局富岡無線所の活躍があったからである。
 アメリカ合衆国大統領クーリッジから大正天皇への御見舞い電報の内容
「日本国民は未曾有の震災に遭遇しつつありとの飛電頻々として全国に達し、驚愕措くところを知らず、茲に貴国に対し余自身及び米国民の何より哀心同情の意を表す、若し貴国罹災民の困苦を減少の道あらば如何なる努力も惜しむに非ず」9月2日ワシントンにて アメリカ合衆国大統領クーリッジ。(これは日本側が発表した訳文を河北新報が9月4日付け朝刊で報じたもの)
 大正天皇よりクーリッジ大統領の救援に対する謝意の返電(ワシントン発、1923年9月6日)
 クーリッジ大統領の御見舞い電報に対して、日本の大正天皇より返電がホワイトハウスに届いたと発表がありました。
「我が国が被りました災害に対し、丁重な御見舞いと感銘深き申し出を戴き、感謝の念で一杯です。大統領閣下と国民の皆様に厚く御礼申し上げます」
★関東大震災直後にクーリッジ大統領が執った措置
1、大正天皇に対し、哀心同情お見舞い、救援の申し出の電報発信
2、陸海軍への救援出動命令
3、船舶局に対する指示
太平洋航行中の米国汽船に対し、向こう1ヶ月間の乗客・積み荷の予約を取り消し、、日本救済のため指示を待つよう待機指示。さらに日本を出港した船舶はUターンして救援にあたるよう命令。
4、アメリカ赤十字社への対日救援の呼びかけ
 とくに、アメリカ赤十字社は大統領自身が総裁を兼務していたので、日曜日であったが赤十字幹部を招集し対日救援活動を指示。大統領自身もラジオ放送に出演し全国民に対日救援を訴えた。赤十字本部委員長代理フィーザーを日本救援責任者として目標額を500万ドルとして義捐金募集全国運動を展開させた。大統領の呼びかけに応じたスミス ニューヨーク州知事は、9月5日の新聞に「HELP JAPAN!・日本を助けよう」という全面広告(左の写真)を掲載し、義捐金金募集を呼掛けた。大統領による全米各州に向けたラジオ演説で震災に苦しむ日本への同情が一気に高まった。シカゴ市は17万ドルの義援金目標を割り当てられたが、目標が少なすぎるとして50万ドル以上集めた。ウイスコンシン・イリノイ州などの中西部10州は目標割り当て30万ドルに対し160万ドルを突破した。義援金はまたたく間に1千万ドルを超えた。大統領の演説は人情に篤いアメリカ人の心を打ち、魂に響き、全米挙げての対日支援となって日本に届けられ、日本人に復興への勇気を与えることになる。

(1923年9月4日付、ワシントンポスト朝刊)大統領はアメリカ国民に対し、次のような呼びかけをしております
「未曾有の大災害を被った親愛なる日本国民に対し、東京、横浜、そしてその周辺各市町村の詳しい被害状況は未だ公式には連絡はないので不確かですが、大地震、火災、津波に襲われ、大災害に襲われた人々は生活手段を奪われ、欠乏、苦境の中で即刻の救援を待ち望んでいることは確かです。政府として即時の救援活動は行っておりますが、救援活動はこれからも長く続けなければなりません。国民の皆さん、友愛の精神で日本救援に協力をお願いしたいのです。救援活動がより効果的になりますよう在ワシントンの赤十字会長、若しくは赤十字社支社長を長とした使節団を日本へ派遣したいと考えております」
早ければ人多く助かる(Minutes Make Lives)」が募金運動の合い言葉だった
★駐日米国大使館全焼(上の写真)
 当時赤坂・榎坂町にあった駐日米国大使館が焼けたため、倒壊焼失を免れた帝国ホテル内に仮駐日米国大使館を設置し、業務活動を再開した。そして、バーネット陸軍中佐を責任者に指名し米国人の安否確認を行うと共に、被災者救援組織を編成し救護活動を開始する。
★100年前のトモダチ作戦
 
9月2日、米国海軍省は、日本で発生した大地震に対する救援のため、清国秦皇島(チン・ファン・ダオ)に在伯中のアジア艦隊司令官アンダーソン長官に対し、艦艇を派遣するよう訓令する。アンダーソン長官は4日には駆逐艦1隻(USS BORIE)を通信連絡艦として長崎に入港させ、沿岸や太平洋上の通信網確保のため、無線中継の任務に就かせる。5日には横浜の居留民が避難している神戸に救援用の駆逐艦1隻(USS JOHN D.EDWARDS)を配備する。さらに長官は清国天津米国陸軍倉庫から多量の救援物資を7隻の駆逐艦に積載させ日本に向かわせ、5日には横浜に入港させている。そして、7日には自ら座乗する旗艦「ヒューロン」で清国の港で食糧を調達したのち、横浜に入港した。アンダーソン長官は米国軍艦船だけでなく、米国商船を救援にあたるよう要請している。
 一方の陸軍は2日午後、米国陸軍省からマニラのフィリッピン総督レナード・ウッド(Leonard Wood)に、日本への出動命令が届く。5日、フィリッピン駐屯軍司令官ジョージ・リード(George Read)は輸送船「メリット」にベッド3,000床、医薬品150トン、食料750トンなどを搭載し、医官18名、看護士60名を乗艦させ自らも乗船し横浜に向かった。マニラからの陸軍艦船出動は主に医療支援部隊で、日本に対する純粋な救援活動であった。一方で東京の在日米国人の横浜、神戸などへの移送並びに湘南地区在住米国人罹災者の移送につても艦艇を運用した。こうした米国艦艇には、2隻の日本海軍駆逐艦が監視行動にあたっている。
 アンダーソン長官は、東京到着後の8日、日本外務省顧問のJ.ムーアと会談し、彼を通じて米国の意向と自らの任務を日本の外務省に伝えた。その内容は次の4点であった。
① 日本政府に奉仕し、米国政府及び米国民の同情と友愛を示す。
② 必要があれば、極東地域の米国海軍艦艇及び米国商船が無線の便宜を図り、避難民や物資輸送、近隣諸国からの食糧物資の調達輸送を実施する。
③ 必要ならばこれらの物資は日本政府に支払いを要求せず、米国が支払う。
④ 日本政府から特別な要求がない限り、物資の荷揚げに関するすべてを実行する。
 極めて友好的な申し入れであった。しかし、救護支援のため数多くの外国船が、外国船の入出を禁じている不開港に出入りするようになっており、このことが日本海軍内で問題とされ、9日になって外務省と海軍省が協議した結果、今後米国艦艇の入港について次のことを決定している。
・横浜に救護所を設置する。
・横浜~清水間の避難民輸送に従事する。
・「メイグス」と「ブラックホーク」を芝浦に回航し、搭載荷物を陸揚げ修了後、横浜に回航する。
 日本はこの時初めて米国艦隊からの救援受入れと日本の外交上重要な意味を持つことを認識したようである。微妙な日米関係もあり、それを無条件で受け入れるわけにはいかなかったのだ。結局、物資の陸揚げ、輸送は日本側が行うと事を条件に政府と外務省は米国の援助を受け入れることにする。
 最終的に米国陸海軍が実施した活動は次の通りである。
・救援物資の輸送。
・毎夜駆逐艦2隻による横浜被災地の照明。
・横浜港から清水港までの避難民の輸送
・マニラ~横浜間の医官、看護師、病院資材の輸送及び野戦病院の開設(収容人員2,000名)並びに被災者の診療。
 そして、9月11日に日本政府は閣議において各国の震災救援課都度に対する処理方針を次のように決定する。
・食糧(米を除く)その他必要物資の提供は喜んでこれを受ける。
・救援事業に関して人を派遣して協力させようとする申し込みに対しては、その好意は深謝するところであるが辞退することとする。ただし、既に来日又は来日しつつある者については外務省当局において適宜の措置を執ることとする。運輸船舶の提供は辞退するものとする。
・食糧その他必需物資を提供するための船舶の入港に際しては、相当の官吏をその船舶に派遣し、一応調査を行った上でその乗員の上陸及び積荷の陸揚げを行うこととする。
 アンダーソン長官は日本に対する救援活動を21日まで継続し、上海に帰投した。ムーアの手記には「アメリカ海軍は、他国に後れを取らぬよう必死に情報活動を行って・・・(中略)・・これは両国の親善を阻害する行為だ」と書き、米国側に注意を促している。こうした状況下でも当然のように米国艦艇内には情報収集の任務を与えられいる乗組員が乗艦しており、日本滞在期間中、情報収集にあたっていたものと思われる。
 米国アジア艦隊の一部は、清国・大連にいた連合艦隊の旗艦「長門」の品川入港とほとんど同じ時期に横浜に入港させている。このことから日本海軍は米国海軍の通信能力の質の高さと迅速行動に驚いていたようだ。他の国、英国、フランス、イタリア、清国などの艦艇がその後に派遣されてくるが、それらの国々と比較しても、米国は突出して大規模な陸海軍を派遣した。その主な艦船は次のとおりである。
米国海軍の主な対日支援艦船 
 艦種  艦船名等
重巡洋艦(旗艦)  「ヒューロン」(Huron)/13,680トン(士官・兵員830名)
  駆逐艦(DD)  「スチュワート」「スミス・トンプソン」「バーカー」「トレィシー」「ボリー」「ジョン.Dエドワード」「ウィップル」「ハルバート」「プレストン」「プレブル」「ノア」計11隻
 駆逐艦母艦  「ブラックホーク」
 兵員輸送艦  「メイグス」「メリット」「アバレダー」「ベガ」計4隻
 給炭船  「ペコス」
 合計  18隻
  東日本大震災で米国海軍は空母ロナルド・リーガンをはじめ24隻の艦船を投入し「トモダチ作戦」を展開したが、関東大震災では装甲巡洋艦ヒューロンを旗艦として17隻の艦船で全面的対日支援を行った。
 そして、撤退も見事であった。海軍省の文書によると、第3戦隊小林司令官は次のように米国アジア艦隊の横浜撤退について、海軍次官あてに報告している。「・・・出港前本職ハ重テ同大将を訪問シ其ノ援助ヲ深謝シ同大将二今後ノ健康ト繁栄ヲ祈ル旨告ケタル所同大将ハ粛然容ヲ改メ亜細亜艦隊二着任以来帝国政府殊二我海軍省ヨリ受ケタル優遇ヲ深謝シ又今回震災救護ノ為来朝以来終始隔意ナキ交渉ヲ海軍当局ト遂ケ其ノ任務ノ達成ヲ容易ナラシメラレタルコトヲ謝シ日本国民カ此ノ振古未曾有ノ災厄二会シテ克ク自重其ノ途ヲ衍ラス復興ノ気運勃々タルモノアルヲ激賞シ・・・(中略)・・・米国国民ノ全般ハ飽ク迄日米ノ親善ヲ欲シ日本ノ繁栄ヲ希望ス殊二米国海軍ハ日本海軍二対シテ飽ク迄好感ヲ有スルモノニシテ今回貴国ノ災厄二対シ米国民カ期セスシテ救済二狂奔シ又米国海軍力微力乍ラ披歴セル誠意ハ偶々叙上ノ議論ヲ裏書スルモノナリ・・・」と、報告している。
 小林司令官は、米国海軍アジア艦隊の行動が極めてスマートであったこと、アンダーソン長官の去就が誠心と友情に満ちたものであったこと、米国海軍アジア艦隊の態度は救援に駆け付けた外国軍隊の行動の模範となったことを付け加えている。関東大震災後の支援等を得て友情と信頼が高まったかに見えた日米が、その後戦争への道を邁進してしまうのはなぜなのか、残念の極みである。

★関東大震災前夜、微妙な日米間系
 1878年(明治11年)、日米条約・協定を修正し日本の関税自主権を認める約書に調印、批准されるも施行されなかった。1886年(明治19年)、外務大臣井上馨が各国公使と第一回条約改正会議を開くが不調に終わる。1899年(明治32年)、日米通商航海条約が締結され、治外法権は撤廃された。 
 1904年(明治37年)、日露戦争勃発。日本は遼陽会戦・奉天会戦で勝利し、日本海海戦でも勝利した。しかし日本の国力は限界に近づいており、日本は米大統領に日露講和の友誼的斡旋を希望する。これに応じた大統領セオドア・ルーズベルトは1905年(明治38年)6月9日に日露両国に講和を勧告し両国は休戦に応じ、講和会議をニューハンプシャー州のポーツマスで開きポーツマス条約を締結する。
 しかし、日本国内ではこの条約に賠償金の規定がなく、戦争に勝っていると考えていた日本の一般国民には不満が多い内容であり、いたるところで暴動が起きた(日比谷焼き討ち事件など)。一方で、ポーツマス条約の結果日本が管理権を得た東清鉄道の南満州部分について、エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営が約束されていたが(桂・ハリマン協定)、小村寿太郎外相の反対により日本が単独経営する南満州鉄道となった。 1909年(明治42年)12月にアメリカは鉄道中立化案を提案したが、翌年1月に日露両国が正式に反対し、提案は流れた。講和によって中国での権益を得ることを期待していたルーズベルトは、これ以降反日感情を強くした。1911年(明治44年)、日米通商航海条約改正により関税自主権を回復し、不平等条約の撤廃に成功した。
 前後するが、1890年のサンフランシスコ市への集団移民開始以来、英語ができず、低賃金で働く勤勉さと旺盛な生活力、また地元経済に金を落とさない(日用品の多くは日本から取り寄せていた)ために疎まれ、次第に日系移民排斥運動が熱を帯びてくる。1906年(明治39年)、サンフランシスコ市の学務局が、日本人学童の隔離を命令した。これは人種差別的 排日移民行動の皮切りとも言われる。この行動は当時のルーズベルト大統領の異例の介入で翌年撤回となる。しかし、1908年までにアメリカへの日本人移民は約12万5千人に上り、カリフォルニア州だけでも5万9755人に達していた。アメリカ駐日大使が日本政府に日本人労働者移民の渡航制限を要請して日米間で合意す(日米紳士協約)。その後も移民は続いたため排日運動はおさまらず、カリフォルニア州では1913年にカリフォルニア州外国人土地法が成立し、日系人の土地取得が非常に困難になる。1924年には1924年移民法、いわゆる排日移民法が成立し、アジア出身者の移民が完全に禁止される。このころ、アメリカ国民の間ではさらに人種差別的な黄禍論が急速に高まっていった。
 1908年に戻る。南満州鉄道問題などにより日米関係は急速に悪化していく。そこで第二回日英同盟協約で日本との同盟を攻守同盟の性格に強化したばかりのイギリスは、日米戦争に巻き込まれることを畏れ始めた。1908年(明治41年)10月には世界一周を行っていたアメリカ艦隊グレート・ホワイト・フリートが日本に寄港。11月には高平・ルート協定が締結され、日本による満州・朝鮮支配と、アメリカによるフィリピンとハワイ支配を相互に承認した。
 1910年8月、大日本帝国は大韓帝国を併合し朝鮮半島を領有する。1914年(大正3年)、日本は日英同盟によってドイツ帝国に宣戦布告(第一次世界大戦)。翌年には中国に対し対華21ヶ条要求を提出する。これに対し、米国務長官ブライアンは要求の一部に不同意の覚書を日本側に手渡す。終戦間際の1918年(大正7年)、ロシア革命によってシベリアに取り残されたチェコ軍捕囚救出を名目に日本のシベリア出兵がはじまった。最初は米国が提案した両国による救出作戦だったが日米間の連絡はうまくいっておらず、同年11月にはアメリカより日本のシベリアへの出兵数は多く・シベリア鉄道占領の件でアメリカから強い抗議を受けた。1919年(大正8年)、第28代アメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンが提唱した理念に基づいてパリ講和会議が開催される(日本全権は、西園寺公望・牧野伸顕ら)。同年2月には国際連盟規約委員会で日本代表は人種的差別撤廃提案を行い、過半数を超える国の賛成を得るものの、突如ウィルソンが全会一致による採択を主張し人種差別撤廃案は否決されてしまう。
 一方で5月には山東省のドイツ利権が日本に継承されることが了承され、また赤道以北旧ドイツ領南洋諸島の委任統治国を日本に決定された。そのころから アメリカは日本を仮想敵国とみなすようになり、日本が得た山東省の利権に反対して、アメリカの上院はヴェルサイユ条約の批准を拒否する。さらにイギリスを抱き込んで日英同盟を破棄させ、日本を追い込む戦略を開始した。翌年、中国借款を日英米仏で成功させる。 そんな中ワシントン会議(1921年11月12日・1922年2月6日)が開かれ、日本・アメリカを含む九ヶ国が出席した。
 ワシントン会議とは、第一次世界大戦後に第29代アメリカ大統領ウォレン・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開催された史上初の国際軍縮会議である。この会議は国際連盟の賛意を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの計9か国が参加。ソビェト連邦は招かれなかった。
 アメリカはヒューズ国務長官を首席全権とし、西太平洋海域、とくに戦略的に重要な島々の防備に関する日本海軍の拡大を阻止することを主な目的としていた。それは日英同盟の廃止による米英間の緊張排除、日本に対して劣位に立たない海軍軍備比率の維持、中国における門戸開放政策継続を日本に正式に受け入れさせることの3点であった。一方、加藤友三郎海相を首席全権とする日本も主に2つの交渉課題を携えていた。それは海軍条約を英米と締結すること。そして、満州とモンゴルにおける日本の権益について正式な承認を得ることであった。そのほかにもアメリカ艦隊の展開拡大に対する大きな懸念や、南洋諸島・シベリア・青島の権益を維持するべく、極めて積極的な姿勢で会議を主導する目論見であった。
 しかし、日本政府から代表団への暗号電は全てアメリカにより傍受・解読されていた。それによりアメリカは日本が容認できる最も低い海軍比率を知り、これを利用してヒューズは日本に迫り譲歩させてしまう。主力艦比率に関する決定は日本にとっては敗北と受け取られたが、それでも経済規模に対する海軍規模の比率は日本が突出しており、海軍維持のための負担は経済成長の大きな阻害要因となっていた。結果としてワシントン会議の議決事項は
1、日米英仏による太平洋における各国領土の権益を保障した四か国条約を締結。それに伴う日英同盟破棄。
2、上記四か国にイタリアを加えた、主力艦の保有量の制限を決めたワシントン海軍軍縮条約の締結。日本は米英に比べ6割を受諾せざるを得なかった。
3、全参加国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める九か国条約を締結。それに伴い、石井ランシング協定を破棄し山東還付条約の締結。
以上のように、全体としてハーディングの思惑通りの会議となった。日本が譲歩せざるを得なかった理由は、対米英との国力比較ではその差が歴然としていたこと。第一次世界大戦後は世界的に平和を求める機運が趨勢であり、日本の国民感情も例外ではなかったこと。そして、対華21か条要求やシベリア出兵などの政府方針が国際的にも国内的にも不評であったこと。そして、大戦景気の一段落した戦後は一転して大恐慌となり、緊縮財政の中、軍事費削減が不可避となっていたことなどによる。

 その結果、1902年に調印された日英同盟は1923年8月15日に失効する。関東大震災発生の16日前のことである。会議はアメリカ有利で閉幕したが、米国では満州への日本の進出、増え続ける日本からの移民による黄禍論の台頭など反日感情が高まっている時だった。そんな時、ハーディングが死去し、クーリッジ副大統領が第30代アメリカ大統領に昇格する。その1か月後に関東大震災が起きるのである。もし、その時クーリッジが大統領でなくハーディングだったらアメリカの「関東大震災・トモダチ作戦」は実行されなかったのではないかと推測される。


★アメリカが日本をこれほど支援した背景
 関東大震災の一報を受け、自身が総裁を務める米国赤十字社に対してクーリッジは「日本に対し、出来得る限りの助力を尽くされんことを希望する」という強いメッセージを出し、最終合計約1200万ドルを日本に送った。なぜ、クーリッジはこれほどまでに日本支援に奔走したのであろうか。伏線として考えられるのは関東大震災の17年前、1906年に発生したサンフランシスコ大地震にある。
★1906年・サンフランシスコ地震
1906年4月18日午前5時12分、サンフランシスコの南西ディリ―シティのマッセルロック沖約2㎞の海域を震央とするM7.8の地震が発生する。激しい震動が約1分間続いた後、いったん弱まるが再度強い震動が続き揺れ始めから2分30秒後にようやく収まった。サインフランシスコ市内では耐震強度を備えていない建造物の多くが倒壊。その後少なくとも約50カ所で出火。水道管が損壊していたため十分な消火活動が行えず、火災は3日間燃え続けた。陸軍は残った建物を爆破して防火帯をつくるしかなかった。当時、サンフランシスコの人口約40万人に対し約3000人が死亡し、22万5千人が家を失った。ユージン・シュミッツ市長は「略奪者はその場で射殺せよ」と兵士と警官に命じた。被害総額は5億ドルと推定されている。この地震を契機に西海岸の中心的都市の座はサンフランシスコからロサンゼルスに移っていく。
★サンフランシスコ地震に対する日本の対米救援・支援
 当時カリフォルニアだけでも5万9755人の日本人が移民していた、その州都サンフランシスコで地震発生!日本政府はただちに救援に乗り出す。それは日露戦争翌年のことであった。日本政府は日清、日露と続いた戦争で疲弊して苦しい財政の中から見舞い・援助金としてサンフランシスコ市に日本の国家予算の1/1000にあたる50万円を贈った。さらに在サンフランシスコの邦人向けに5万円を送る。サンフランシスコで日本人排斥運動が盛り上がっている中、日本政府としては最大限の支援をすることで、日本人移民排斥運動・反日感情の盛んなサンフランシスコやギクシャクした日米関係改善の好機とする考えもあった。日米関係の重要性を訴えていた渋沢栄一氏なども商工業者の先頭に立って義捐金を集め、支援国の中で最大の義捐金を送ることになる。米国の記録にも「明治天皇から20万ドル、日本国民から10万ドルが寄贈され日本政府は病院船の派遣を申し出ている」と書かれている。これは日本が行った「サンフランシスコ地震:トモダチ作戦」だった。
 日本からの多額の支援については新聞で全国に報道された。しかし、三日三晩燃え続け人口の半数以上がホームレスになったサンフランシスコは、停電と交通遮断状態で情報は伝わらず、日本の友情と誠心はほとんど届いていない。地震後も日本人に対する理不尽な嫌がらせや排日感情は高まる一方で、路上を歩いているのが日本人と知ると、がれきや腐った卵、齧りかけの果物を投げつけたり、殴りかかる者さえいた。当時地震研究のためサンフランシスコ市に出張していた東京帝国大学の大森博士さえこうした目にあったという。
★クーリッジ大統領と関東大震災
 それでもサンフランシスコ地震に対する日本の懸命な支援努力は、全米で報道され評価されていた。その17年後に発生した関東大震災時にサンフランシスコ地震時の日本の対応を思い出し、その恩返しとして多大な対日支援を行ったという推測も納得できる見立てといえる。
 そして、クーリッジ大統領である。1906年のサンフランシスコ地震発生時クーリッジは31歳、その時マサチューセッツ州にいた。地震発生前年の1905年にはグレース・アンナ・グッドヒューと結婚し翌年息子が生まれた。いよいよ本格的に政治家への道を志し州下院議員を目指して活動をしていた時期、サンフランシスコ地震が発生する。後年州知事時代に「公の安全はすべてに優先する」と言っていたクーリッジは、サンフランシスコ地震後の恥ずべき略奪、暴力など治安の悪化と混乱に心を痛めていたものと推察する。そんなとき、2年前に大国ロシアに勝利した極東の島国・日本、その日本がサンフランシスコ地震で世界各国の中で最大の支援をしたこと、クーリッジは心の中に日本の存在を強烈に刻み込んでいたに違いない。
 クーリッジが大統領に就任して1か月後、その日本で発生した大地震。サンフランシスコ地震と同じような大揺れと大火で大惨事を引き起こした関東大震災。クーリッジ大統領は即座にサンフランシスコ地震と重ね合せ、あの時に寄せられた日本人の好意と支援を想起し、今こそ恩返しのときが来たと考えたか、併せて日本や列強との外交を有利に進めるためのしたたかな計算もあったかもしれない。いずれにしても大統領就任後初の外交案件であり、その信条を内外に示す絶好のチャンスと位置づけ、直ちに対日支援を決断したのではなかろうか。日英同盟破棄を画策し日本包囲網やワシントン会議などを通じ徹底して反日政策を続けた傲岸不遜のウッドロー・ウィルソン、その流れを継承しつつ経済立て直し途上に汚職スキャンダルに足を取られたウォレン・ハーディング。合衆国憲法と独立宣言を過去の遺物と唾棄したウィルソン。彼らがその時の大統領だったら形式的支援しかしなかったに違いない。しかしクーリッジは、合衆国憲法と独立宣言を基本にして「自由・平等・平和」を掲げるだけでなく実践した大統領である。
 黄禍論や人種差別主義に傾いた議会による移民法案の反日条項を排除すべく懸命に努力するほど、クーリッジは徹頭徹尾親日であった(後年、同法案が排除できなかったのは「アメリカの不幸」と語っている)。クーリッジ哲学の根底はキリスト教にある。「我々の国家は道徳なしに生きることはできず、道徳は宗教なしに生きることはできない」と語っていた。クーリッジにとって「人間はすべて神の子」であった。そして人種差別を排除し能力第一主義を貫いていく。それを政治信条へと昇華させ「議会は法の制定、司法は法の適用、行政は法の執行であり、行政の長たる大統領の任務は「法の執行者」にほかならない」を明確に位置づけていた。そのためにも「良い法律をつくることよりも悪い法律をつぶす方が重要」という名言を残し、拒否権を徹底的に行使し不要な法案を葬り去った。クーリッジは在任中4回もの大減税を行い、財政赤字を削減させ(23年22.3億ドルから29年の16.9億ドルへ20世紀最大の削減率を達成)。自動車やラジオの工業製品が大量に生産出荷され、失業率は最低となり、クーリッジ在任中一人あたりの平均所得は522ドルから716ドルに上昇するなど、所得と生活水準が飛躍的に向上する。クーリッジは政府の経費節減、規制緩和、自由貿易を推奨しアメリカの「黄金の20年代」(狂騒の20年代という人もいる)を創出するのである。
クーリッジは徹底した倹約政策を実行し国家の無駄遣いを戒めた。「私が倹約政策に傾倒するのはカネを節約したいからではなく、人々を救いたいからだ」「この国の政府支出を支えるのは働く人々である。我々(政府)が、1ドル無駄に使えば、その分彼らの生活がひもじくなることを意味する」「倹約とは、最も実用的な形式での理想主義である」という言葉を残している。
 繁栄は人心の安定と偏見の減少をもたらす。ウィルソン時代に人種差別主義団体KKK(クー・クラックス・クーラン)のメンバーはクーリッジ任期終了時には最低水準に減少し、黒人への暴力もほぼ消滅した。1970年代の不況から経済を建て直し80年代の繁栄をもたらせたレーガン大統領が尊敬し手本にしたのがクーリッジであった。そのクーリッジが大統領だったから突出した「日本へのトモダチ作戦」が実行できたのだ。災害は無いほうが良いが、生涯政治家を志すと決意し、生涯の伴侶と結婚したそのときにサンフランシスコ地震発生、大統領就任一か月後の関東大震災発生。この巡り合わせはクーリッジにとって運命的奇跡ともいえる。
 関東大震災の翌年、大統領選挙が行われた。現職大統領として出馬し大勝したクーリッジのキャッチフレーズは「クーリッジで冷静にクールに」であった。米国政治学者の間ではリンカーン以降、レーガン以前、クーリッジこそ最大の政治家であったといわれている。(出典:WHY COOLIDGE MATTERS(Charles C. Johnson著)より)

★関東大震災の当日、アメリカに届いた緊急無線
 アメリカの迅速対応を可能にしたのは横浜港碇泊中の船から発信された緊急無線であった。1926年2月28日・大日本帝国内務省社会局 発行の「大正震災志」には次のように書かれている。「通信機関全滅の裡に災害を逸早く報じ得たのは横濱碇泊中のコレア丸であった。その日森岡神奈川縣警察本部長は漸くにして震火の間を潜り抜け、官服の儘身を海中に投じて、遂にコレア丸に到達し、コレア丸の無線電信を以て東京府知事に宛てて『地震の為め横濱の惨害其極に達す。最大の救助を求む』と打電したのであった。然し東京市も惨禍の裡にあったのであるから、固より其返電はなかった。更に大阪方面に向かって救助を求めたるに即刻返電あり、ついで詳細の報告を致したのであった。
 コレア丸の無線放送を受信した船橋の無線電信局は強力の電波を以て之を各地に打電した。恰も南支那沿岸に遊弋中の米国亜細亜艦隊は之に感応して、同艦隊司令官は獨断の處置を取り、二百五十萬圓分の救済物資を贖め之を舶載して横濱に急航し、米船スルガ1号は漢口に輸送すべき物貨を積んで金華山沖を航行したるに、同じく此の無線に感じて、直に救助船となり、芝浦に寄港した。其他の軍艦商船も此無線に感応したものが多かった。
 福島縣 原の町無線電信局は同縣富岡受信局より此通信を受くるや、直に米国に向かって打電した。一日夜、此無線が米国に達すると、翌二日は日曜日なりしにもかかわらず、大統領クーリッジを總裁に戴ける同國赤十字社は時を移さず華盛頓(ワシントン)に於て幹部会を開き、救済金五百萬弗募集の計画を樹立し、大統領は無線電話を以て全米各州に向かって一場の大演説を試みた。此演説は非常の反響を喚起し、同情はごう然として極東の大震災に対して聚まったのである。シカゴ市は十七萬弗を割り当てられたが、之を少しとして、五十萬弗を突破し、ウイスコンシン・イリノイ等中西部十州は三十萬弗の割当に対して百六十萬弗に及んで、全米の義捐金は須臾の間に一千萬弗を超えたのであった。(中略)
 九月六日、山本首相は在米埴原大使を経て、米国大統領に対して左の如く申し入れた。『欧州大戦後に於けるヴェルサイユ條約及び華盛頓(ワシントン)條約は世界平和の大本を確立し人類の福祉を増進するに於て吾人の慶祝禁ずべからざるものあり。帝国は條約の趣旨に遵由し之れが實効を遂ぐるに最善の努力を為しつつあり。是時に際し偶々帝都附近に大震災起り祝融の殃厄之れに伴ひ凄惨名状す可らず。皇上を初め官民の憂惧限りなきの折柄、支那方面に在る米國東洋艦隊司令官は直に麾下艦艇を震災地方に派遣して食糧物資の運送其他応急必需の為艦隊の全力提供せんことを申込まれ、既に其の一部の艦艇は横濱に到着し、尚比律賓(フィリッピン)政府は数隻の運送船に物資を満載して発航せしめ、更に米國大統領は布告を発して米國國民に対し援助を勧誘せらる。是等の報道は既に多数罹災者の耳に入り、其の敏速なる人道的処置に対し深く感動を興へつつあり。此間に於て米國大使以下館員は在留米國人と共に大使館が火災の厄に遭ひたるに拘らず、献身的努力を以て救援の事業に貢献せらる。以上の事實に対し、本大臣は帝国政府を代表し、満腔の感謝を米國政府に致すと同時に、大統領及米國政府及國民の深甚なる同情に対し、我君主及國民の熱誠なる謝意を表し、尚此の不幸なる災害の時に際し表彰せられたる米國政府及び國民の友情の発露が貴我両國の親交に一層の鞏固を加へ、惹て宇内和平の連鎖を益々強靭ならしむべきは本大臣の信じて疑はざる處なる旨を附言せんと欲す(以下略)」(一部現代仮名遣い、読みにくい地区名はカナをカッコ書きとした)
※コレア丸(安田財閥系・東洋汽船(1896~1950)所属運搬船)

 クーリッジの後、平和と人道主義を標榜したが世界恐慌後の不況対策が功を奏せず評価が低かったハーバート・フーヴァー(31代大統領)、人種差別・反日、好戦派といわれたフランクリン・ルーズベルト(32代大統領)と続く。ルーズベルトは対ドイツ参戦を画し、そのきっかけづくりに強引に対日包囲作戦を敢行する。そして日本を太平洋戦争開戦へと追い込んでいった。
 太平洋戦争後の1946年5月、第33代アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンはフーヴァーを占領下の日本に派遣した。8人の大統領下でFBI長官を務めたフーヴァーは、当時も影の大統領ともよばれていた。そのフーヴァーが東京で連合国総司令長官マッカーサーと会談した。その時フーヴァーはマッカーサーに第32代大統領ルーズベルトのことを評して「彼は対ドイツ戦に参戦する口実を欲しがった狂気の男だった」「日米開戦前の1941年7月に彼が行った在米日本資産凍結やABCD包囲網などの一連の対日経済制裁について、対ドイツ戦参戦のため、日本を破滅的な戦争に引きずり込もうとしたものだった」と語っている。もし、自分かクーリッジが大統領だったら、日本との戦争は避けられただろうとも付け加えている。
 クーリッジの死後数十年を経て、ロナルド・レーガン(第40代大統領)は経済政策で、バラク・オバマ(第44代大統領)は東日本大震災時のトモダチ作戦で、カルビン・クーリッジ(第30代大統領)の哲学と道徳を踏襲したといわれている。

 関東大震災から10年後の1933年1月5日午後12:45、クーリッジはマサチューセッツ州ノーザンプトンの自宅「ザ・ビーチ」で心筋梗塞のため死去。(上の写真はクーリッジの死を伝えるニューヨーク・タイムズ紙)享年60歳だった
クーリッジはバーモント州プリマスノッチのノッチ墓地に埋葬された。同所にある一家の邸宅は博物館となっている。
 こんなエピソードが残されている。クーリッジ大統領は、ある晩、泊まっていたホテルでふと目を覚ました。すると、男が自分の服を探っている現場を目撃する。暗闇の中だったがクーリッジは普段の口調で「その時計は、置いて行ってほしい」と声をかけた。驚いた男は思わず「なぜ?」と聞き返すと、「私にとっては、大切な時計なんだ。 時計の裏側の文字を読んでごらん」と言う。男が時計の裏をみると『謹呈、下院議長カルビン・クーリッジ殿マサチューセッツ州議会』と書かれてあった。 「クーリッジ大統領でいらっしゃいますか?!」そう叫んで男は立ちすくんだ。クーリッジは友人に話すように「なぜ、こんなことになったの」と聞いた。すると男は「友人とワシントンで、お金を全部使い果たしてしまい、 2人分の部屋代と帰りの汽車賃(32ドル)に困っていたのです。」と話した。それを聴いたクーリッジは「貴方に、32ドル貸しましょう。返してもらう条件でね」と言うと、男は「有難うございます。大統領閣下!」と答えたそうである。何年も経った後、亡くなったクーリッジ大統領のメモには、「青年は、32ドルを全額返済した。」と 書いてあった。
関東大震災発生時、炎上するホテルから女性を救出した海軍少尉トーマス・J・ライアン
12月帰国したライアンに勲章を授けるクーリッジ大統領(左)
1923年9月1日、駐在武官として来日していたライアンは横浜にいた
関東大震災発生後、倒壊炎上したグランドホテルに飛び込み、スラック夫人を救出
この行為が「突発的な英雄行為」と評価され名誉勲章が授与された
帰国後はホワイトハウスで大統領補佐官として活躍
その後、哨戒ヨット・メイフラワー、駆逐艦・ブルース勤務を経て1927年中尉に昇進
日本による真珠湾攻撃後、大佐に昇進したライアンは第21駆逐群司令としてソロモン海戦で日本海軍と闘う
日本の敗戦後、法務官として日本がらみの事案に関わった
1970年死去・アーリントン国立墓地に埋葬される

★関東大震災のちょっといい話
日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。
★町を守り抜いた人々  ★希望を与えた震災イチョウ ★7万人を救った浅草公園 ★朝鮮人を救った警察署長
山村武彦 関東大震災概要 そのほかの写真レポート

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