四川地震直後・現地調査/画像阪神・淡路大震災新型インフルエンザ防災・危機管理講演会山村武彦ホームページ防災格言


四川、加油!(ジア ヨウ・がんばれ!四川)
四川地震5.12汶川地震)から一周年、現地調査/文と写真:山村武彦

 M8の地震をひき起こした竜門山断層沿いにある四川省綿竹市は、死者11,104人、家を失った人20万人以上という大きな被害を出した町である。筆者後方は市の中心部から約3Km北にある漢旺鎮の時計塔。昨年5月12日午後2時28分(地震発生時刻)で針は止まった。震央・汶川映秀から北川まで約250㎞の長さ、約12万平方㎞を約1分~2分間 強烈な揺れが襲った。レンガ積みや古い耐震性のない建物が音を立てて崩れ地獄の様相を呈した。一瞬にして死者69,130人、行方不明者17,824人、負傷者374,031人、避難した人約1,514万人、被災者累計46,160,865人(2008年6月6日現在)の大きな被害を出した。直後の被災地は建物の下敷きになった人たちが多く、救出救護を求める家族の悲鳴や怒声が飛び交い、遺族の絶望と号泣が街を覆った。一万年に一度という大地震は、かけがえのない命や財産を奪い、罪もない人々を塗炭の苦しみに陥れた。
 その2週間後、私が綿竹市に到着した時、がれきとがれきの間や時計塔周辺には被災者、仮設の露店、政府、関係機関、支援団体、ボランティアなどのテントが無数に立ち並んでいた。排気ガスの青い煙と土埃、カーバイト・ガソリン・香菜・炒め油の懐かしい匂い、空ぶかしとクラクションの合唱、警察官の笛、物資を配布する声、バケツに飯を確保しようと血走った眼、人をかき分け怒鳴りあう声、あの時この町この通りにはまぎれもない「生命」のエネルギーが満ち溢れていた。
 一年後、それらがまるで白昼夢か幻想だったかのように車や人影は跡形もなく消え去り、深く重い静寂だけがあたりを支配していた。ここのテント村にいた20,000人を超える被災者たちの多くは、当局の指示で昨年12月までに仮設住宅、自宅周辺のテントやバラック、そして親族を頼って遠くの町などに移住していったという。災害直後、内外の視線は陽光に凸レンズをかざしたように一点に熱く注がれる。その熱に浮かされた人たちは「善意のはけ口行き」バスに乗り遅れまいと我れ先に乗り込む。それは無意識な上から目線同情者、生きがい探究者、そして真の助っ人たちが呉越同舟連帯し津波のように被災地めがけて押し寄せてくるのだ。被災者が好むと好まざるとに関わらず、あっという間に被災地は急性桃源郷症候群と集団的同調性バイアスに飲み込まれていく。まるで香港の女人街かパンドラの小筐を開いたかと見まごうような活況・混沌を呈し、良くも悪くも全体が「躁」ウィルスの感染爆発(パンデミック)状態。遅れて来た者をしてそのハイテンションにたじろがせたりする。しかし、急性善意熱発者の一過性高揚熱はすぐに冷め「あれは何だっただろう」と自問自答しながらも、「自己満足」を手土産に逡巡することなく彼らは短時間で「日常」に復帰していく。そして、真の助っ人と被災者と義務を負った人たちだけが残される。
 短期助っ人たちが引き揚げたあと、一瞬漂う脱力・疲労感とかすかな安ど感。その後、次々と浮き彫りにされる過酷な現実と困難な課題、時を経ずして被災者は深刻な「鬱」に陥る。社会の関心が薄れるころ、「怖れ」と「不安」が澱のように沈澱しはじめるのが被災地その後の常である。
 一年後、再建された立派な家に住んでいるのはごく一部の富裕層。小さなレンガ造りの家でも100万円はかかる。平均年収7~8万円の貧しい被災者に補助金(約24万円)の不足分を銀行が貸してくれるはずもなく、住宅再建どころか、仕事もなく生活資金さえ工面できず途方に暮れる人たちも多い。賃貸住宅を借りる被災者には月約2000円の助成金が出るが、被災地の賃貸料は高騰し月3000円以上かかる。地震に伴う都市開発計画により農地を追われる農民も多い。個人ニーズより国家政策が優先される。政府は復興3年計画を今年になって1年前倒しして2年で復興を完了すると発表。被災地では、上海万博(2010年5月開会)を成功させるための「国家面子優先策」だと受け止める人もいる。この方針を受け、地方政府は応急仮設住宅を今年中にすべて解体するとしている。災害が生むさらなる格差への絶望と諦観、内集団ひいきという不条理への怒り、資金不足と言いながら330億円を要する地震博物館建設計画、1019人の震災孤児、一人っ子の死を未だ受け入れられない遺族、現実と向き合い覚悟を決めた被災者。「汶川地震遺址」として保存が決まった時計塔は 時を刻めないまま、未だ終わっていない災害を見守り続けている。
地震直後の現地調査
仮設住宅に残っているのは高齢者か病人が多い

直後は被災者用テント村だった。冬は零下になるためテントでは暮らせないと、被災者や親戚の人たちが古トタンなど持ち寄ってできたバラック村
捨てられた病院・綿竹第三医院は壊れた病棟だけ撤去(地震直後の現地調査)参照。
あちこちに倒壊家屋が1年前と同じ姿で放置されている(青城山大観鎮)
富裕層家屋はすぐに再建される・災害は貧富格差、地域格差を浮き彫りにし、さらなる格差をも助長
一年前に出会った鮮さん(52)と再会。同じ場所で同じように鋏を小気味よく鳴らしていた
青トタンに囲われた30年来の理容店は地震で大破。「いつかきっと店を再建したい」と、鮮さんは唇を引き締めた

地震直後の現地調査)参照
飼い犬に起こされ九死に一生を得た劉さん夫婦にも再会(同じ場所で川魚料理店を再建中、年内に完成予定)
当初、甚大被害地域に建物を建てることが禁じられたが、耐震性の高い建物であれば許可されることになった
政府からは住宅再建費用として一律1万6千元(約24万円)が支給されるが、店の再建には数十倍の費用をねん出しなければならない
地震直後の現地調査)参照

激甚地域は封鎖(管制地区)され、ゴーストタウン化
管制地区前で「地震記録(DVD/VCD)」を80元(約1200円)で売っていた
念のため入手してみると、地震直後の揺れ始めから必死の救助活動など凄まじい様子が収録され、今まで見たこともない貴重な映像もあった

 おから工事による校舎倒壊で多くの中学生と教師が死傷した都江堰(とこうえん)市立聚源中学校跡。片付けられた校舎の周囲にはネットが張り巡らされ誰も近寄ることはできない。地震直後、政府・学校関係者の責任を迫る遺族抗議集会がこの前で何度も開かれた。それを取材した海外メディアが一時拘束されるなど、オリンピック開催前とはいえ衣の下の鎧を時折見せられる時もあった。今中学生たちは500mほど離れた仮設の教室で授業を受け、その裏側では校舎再建工事も進めらている。
 旧校舎前の食堂では近所の主婦たちが麻雀に興じ付近は日常生活に戻っているようだったが、一人っ子を亡くした遺族たちの傷は深く、癒えることはない。(地震直後の現地調査)参照

地震が残した深い傷跡(綿竹市中心部のビジネス街)
 壊れたビル壁に結婚相談所の張り紙(伴侶を地震で失った者同士を結ぶとのこと)

被災地、理県の復興担当である福建省が建てた仮設住宅村
国が定めた被災地区別復興支援担当は、都江堰市=上海市、江油市=河南省、彭州市=湖南省、汶川県=広東省、成都市温江区=黒竜江省、理県=福建省、北川チャン族自治県=山東省、宝興県=海南省、平武県=吉林省、甘粛省隴南市=北京市、什邡市=北京市、甘粛省甘南市=天津市、茂県=天津市、綿竹市=江蘇省、大邑県=内モンゴル自治区など
アンテナが林立する仮設住宅
上海市がつくった都江堰市の仮設住宅
 テント村を改造し被災者たちが造ったバラック村(漢旺鎮)
仮設住宅生活で被災者には疲労が漂う
応急仮設住宅手前のフリーマーケット(都江堰市)
現在フリーマーケットになっているところは、一年前は被災者用テント村があった場所。そのテントは愛知県・兵庫県などから贈られたもの
異常が日常
フリーマーケット/お米500g=2元(約30円)、500mlミネラルウォーター=2角(約3円)、食料品の物価は安定している
フリーマーケット・テント屋根部分には兵庫県の文字
被災者支援のため兵庫・愛知両県から無償提供されたテント400張り(2008年6月2日成都空港到着)の一部とみられる
中国は世界一の豚肉消費・生産国(年間5,197万トン)、そのうちの30%は四川省が生産・出荷している(仮設住宅前のフリーマーケット)
豚インフルエンザ発生が伝えられているせいか、ここの豚肉は生産者管理や検査も徹底していて安全だと店主は胸を張る(豚肉500g=8元(約120円)
 
近くの小規模養豚場を見せてもらった。衛生管理は万全というが・・・

12,000か所以上といわれる橋梁・道路復旧の遅れが被災地復興の阻害要因
 什邡市と綿竹市を結ぶ主要道にかかる大橋、復旧工事は遅れており開通は未定
 都江堰市と汶川市を結ぶ都汶高速は開通のめどは立っていない。生きているたった一本の一般道も奇数日と偶数日で上り下りの一方通行となっており、その上1周年を迎える5月12日には胡錦濤主席が汶川を訪問するとかで、このところ急に資機材満載トラックの通行量が急増し24時間渋滞が続いている。このため汶川に行ってくるには2日~3日がかりとなる。
 荒れた応急道路は時速20Km程度でしか走れない
 解体し始めた仮設住宅(地域によって復興の進捗度に格差)
仮設住宅の向こうで復興住宅の建設が急ピッチ
被災地域ごとに建てられる復興住宅(政府の資金で建築し、通常の3分の1程度の金額で被災者が購入する仕組み、資金がない人には地方政府が融資する)
 地震後、レンガ造りでは通し柱に鉄筋を入れコンクリートを流し込むことになったという
 
 鉄筋(10φ)8本を10cmピッチのループ筋で巻き、一部をレンガ間モルタルに針金で固定したあとコンクリートを流し込む
しかし、レンガを積み上げた壁に筋かい、トラス、控え壁などはなく、必ずしも耐震性が高いとはいえないが一歩前進したことは間違いない
この地方で家を建てる場合、親族友人など一族総出でレンガを積むのが習わし
1個3角(約4円50銭)だったレンガ、今は4角(約6円)に値上がりしたとされているが、実際には1個6角(約9円)でないと手に入らない
街角で一車単位(2千~3千個)で売られるレンガ 
 
積み過ぎでパンクした車も

 
都江堰市郊外に建てられた被災者用永久住宅(復興住宅)、完成すると下のような外観となる
 
 江蘇省の支援で綿竹市郊外に被災者用の新しい町づくりが始まっている(上と下)
 
 
 畑の中に忽然と出現する永久住宅(復興住宅)/構造・形状・間取り・被災者負担額は地域や支援担当県などによって異なる
 
  従来の住居から数キロも離れた復興住宅・農地から離れることを嫌う農民も多い/四川省の倒壊家屋:445万4千世帯(うち農村347万6千世帯、都市97万8千世帯)中国の農業就業者は労働人口の65.45%(ちなみに日本は3,44%)にも関わらず以前から三農問題(農民真苦、農村真窮、農業真危険)が国家の重要課題とされている。
・農民問題:農民の収入が低く増収は困難であり、都市‐農村間の貧富の差は拡大し農民は社会保障の権利を実質受けていない。
・農村問題:農村の状態がたち遅れ経済が発展しないこと「中国の都市はヨーロッパのようだが、農村はアフリカのようだ」という人もいる。
・農業問題:農民が農業で金を稼げず産業化のレベルが低い。
①余剰労働力があるのに少ない耕地面積。②農業技術がたち遅れている。③労働生産性と一人当たりの所得が低い。④都市部対農村部という厳格な二元構造。
 昨年から遼寧省、河北省、雲南省など13の省・自治区・直轄市で「農業戸籍」と「非農業戸籍」の二元性を撤廃し「住民戸籍」ひとつに統一するなど、政府が戸籍改革に乗り出していることは注目に値する。
 現在、都市と農村との所得格差はどのくらいあるかというと、農村一人当たり所得は上海の約八分の一という数字が出ている。(出典:中国国家統計局2007年データ) 農家所得が低いのは農業の生産性が低いことからもうかがえる。中国の農業従事者一人当たりの穀物生産量は0.47トンでしかなく、大規模農業を展開する米国49.29トンの百分の一程度の生産性、狭い農地の日本と比較しても約六分の一の生産性しかない。ただし、日本の自給率は24%だが中国の穀物自給率は101.0%で、これだけは中国に到底かなわない。こうした三農問題もあって、地震を機に被災者の中には親族を頼って統一戸籍制度を勧める地域に移住しようとする人もある。また、 断層近くで全滅した農村は集団移住が迫られ、大事な農地への執着と土地の借地権(約70年租借・問題がなければ自動継続)、建物使用権(転貸など)など、個人個人がそれぞれ複雑な権利関係と補償問題を抱えており、一部は農民と郷鎮政府との間で軋轢があるという。
 中国政府は昨年11月、緊急経済対策の一環として内需拡大を推進させるため「家電下郷」政策を発表した。洗濯機、冷蔵庫、カラーテレビ、携帯電話、オートバイ、パソコン、エアコン、温水器、電子レンジ、電気コンロなどを農民が購入する場合、価格に対し13%の補助金を支給するというもの。また、今年に入ってそれに「汽車下郷」が追加され小型自動車の取得税が減免されることになった。統計局の発表では3月度だけでこの下郷政策により148・5万件、22.4億元(約325億円)の実績があがり今後も上向き傾向にあることを強調し、この政策はむこう4年間継続することが決まっている。しかし、恩恵を被るのは農業戸籍をもった裕福な地方政府役人とか一部の富裕農家に限られていて、大部分の貧困被災者はその恩恵どころか当座の住宅負担金や生活資金にさえ事欠いているのが実情。単純な支援策は富む者をさらに豊かにし、貧しいものをさらに貧しくさせる。

 災害から一年、犠牲者のご冥福と被災者の生活再建を心からお祈り申し上げます
山村武彦

 四川省・5.12汶川地震1周年の現地調査を行ったのは2009年4月25日から4月30日までの5日間。「蜀犬吠日」と言われるように5日間のうち晴れた日は半日程度で、内モンゴルから来たという黄砂と曇天で竜門山山脈の稜線はいつもぼやけて見えた。1年前と同じように成都のホテルをベースに朝早く出て夜遅く帰る毎日だった。
 4月28日、豚インフルエンザ関連のNHKBSニュースを見たあと、ついでに早朝散歩に出た。近くの雑居ビルに行列ができていた。時計を見ると6時半。並んでいる人たちは20代から70代と思しき雑多な男女。50mほどの先頭に回って見えたのが左のポスターだった。最近全国ロードショウが始まったそうだ。「南京!南京!」という題名に一瞬どきりとした。例によって日本たたきのプロパガンダ映画ではないかと思った。
 翌日通訳(中国人)に聞くと、彼はこの映画のことをよく知っていて、今までになく日本人視点の南京虐殺を取り扱った意欲的な映画だという。「中国人を殺せという上官の命令に、悩み、葛藤する日本兵(日本人俳優)が描かれている」「悪いのは軍上層部であり、一般の日本人は中国人と変わらない。」というような陸川監督(39)のコメントがインターネットに書かれていたとのこと。しかし、現体制下で日中戦争を作れば、一方的受難者論理で描かない限り、中国国内で上映すら許されないはずだから内容はおって知るべしかもしれない。と言って侵略戦争が正当化されるものでもなく、こうした映画に行列ができる事実にも目をそむけてはならない。
 私の父は太平洋戦争末期にフィリッピン・ルソン島で戦死した。28歳だった。私は父の顔を知らない。10年前に亡くなった母の話によれば、父は出征直前の面会で生まれたばかりの私を抱きしめ男泣きに泣いたそうだ。25歳で結婚し翌年生まれた息子を自分の腕に抱いたとき・・ふいに「明日戦場に赴かなければならなかった父、どんな思いで私を抱いたのだろうか」その思いが込み上げ、つい人目もはばからず号泣してしまった。何も知らない妻は「そんなに嬉しい?」と聞いた。私は黙ってただうなづくしかなかった。
 一年前、地震で多くの死者を出した四川省に日本の国際緊急救助隊(60名)が外国勢としては一番乗りでやってきた。生存者救出ができず無念とうなだれる隊員たちに、被災者や中国全土から感謝と励ましの言葉が多く寄せられたいう。そして地震直後、現地調査に行った私が日本人と知ると、被災者たちから「謝々」「多(大)謝」と、行く先々で声をかけられ彼らを誇りに思った。一年経って、被災地はまだ復興が緒に就いたばかり、多くの被災者は忘れられた存在のようにさえ感じる。一周年を迎える5月12日午後2時28分、全国で黙とうを捧げ、5.12汶川大地震博物館オープン、鎮魂コンサートなど各地で様々なイベントが催されると聞く。しかし、それは地震直後に寄せられた一過性人道主義となんら変わらず、1分だけ犠牲者と被災者に思いを馳せ、あとは忘れたい人たちの免責一里塚に等しい。個人ニーズを無視し、災害格差を助長する復興被災者政策。もちろん、基本は自力再建である。そして被災者、支援者それぞれがそれぞれの事情や荷物を背負い、守るべきものをもっていることも知っている。だからこそ「同じ時代を生きる者同士」の視点や限定的であっても「困難の共有・認識」が重要なのである。日本でも今年平成十六年新潟県・中越地震5周年を迎える。優しさや思いやりは一過性ではなく、自立しようとする人たちに継続的な関心を持ち、できる範囲でいいから声援を送り続けるべきである。支援とは、心が折れないように「見守り」「支える」ことであり、支えるということは、困難に立ち向かう人たちの努力を「見届ける」ことではなかろうか。せめて忘れて欲しくない。
 四川地震が一周年を迎え、「南京!南京!」のロードショウに行列ができているころ、麻生総理大臣が中国(北京)を訪問(4月29日~30日)していた。ニュースでは「麻生総理は、得意の映画、漫画などサブカルチャーでの交流を行うとともに、深刻な環境問題を抱える中国に大気汚染や黄砂対策での支援を表明した」と伝えられていた。戦争責任や慰安婦問題もさることながら、被害を与えたものは被害を受けたものが許すまでは忘れないのがせめてもの礼儀である。贖罪としてではなく、困難に遭った隣人を見舞う隣人としての心遣いこそが哀しみ、苦しみ、怒りさえ和らげる。北京で映画監督と漫画の話をするよりも、首脳会談前に足を伸ばして四川の被災者たちを励ましていたら・・・・それが外交というものではないのか・・。日本の政治家や外交官はもはや時を刻んでいないのかもしれない。