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熊本地震から5年/現地写真レポート(文・写真:山村武彦)
  

熊本地震で損壊した熊本城は震災から5年、大天守、小天守が再建され2021年4月26日から一般公開となった
周辺の石垣や櫓などの復旧はまだ時間がかかりそう/がまだせ 熊本!(頑張れ熊本!)/2021年4月6日撮影
天守閣の耐震化とバリアフリー化(エレベーター新設など)
 熊本城は1607年に茶臼山という台地に加藤清正公が当時の最先端の技術と膨大な労力を投入して完成した。1877年の西南戦争の際に焼失。1960年に鉄骨鉄筋コンクリート(SRC)造などで再建された。大天守は地下1階・地上6階建て、高さ30mで延べ面積1759平方メートル、小天守は地下1階・地上4階建て、高さ20メートルで、延べ面積1309平方メートル。熊本地震では屋根から多くの瓦が落下し、石垣が崩れた。内部では鉄骨の橋脚が破損したほか鉄筋コンクリートの壁にひび割れが生じるなど甚大被害を受けた。
 熊本市は天守閣を復興のシンボルと位置付けて復旧を最優先に薦めてきた。施工を担ったのは大林組。事業費は約86億円。復旧工事は石垣を積みなおし、外壁や瓦を修復すると共に耐震化を図った。耐震ブレースを設置し炭素繊維による梁の補強などを行っている。天守閣内部の階段付近などには制振ダンパーを設置(老いるダンパー3カ所、摩擦力を利用したブレーキダンパーを11カ所、二つのダンパーを交差させたクロスダンパーを18カ所)した。そのほか、瓦の下地を湿式工法から乾式工法に変更し屋根を軽量化した。小天守は跳ね出し架構を採用し、石垣と躯体を分離した。以前は小天守の外周の一部が石垣に載っていたため、石垣崩壊によって小天守1階の床が沈下するなどの被害が出た。また、階段には防火戸をなどの防火設備を設け竪穴区画を形成し防火性能の向上も図っている。
 また、天守閣の入り口にスロープを設置したり内部にエレベーターを新設してバリアフリー化を進めた。 熊本市は今後、宇土櫓などの国の重要文化財に指定されている建造物などの復興を進め城郭全体の復旧は38年度完了を目指すとしている。

 
上記画像出典/日経XTECH

熊本地震概要は筆者の「熊本地震現地調査写真レポート」サイトをご参照願います 
2016年4月14日(前震)と4月16日(本震)に発生した熊本地震を引き起こした布田川断層帯の地表地震断層は国の天然記念物に指定された
下の画像は地震直後に私が撮影した右横ずれの地表地震断層(断層を境に向こう側が最大2.5m移動した)
上の画像/2016年4月16日撮影
下の画像/2021年4月6日撮影
筆者が指さしているところが地表地震断層(5年前と同じように麦が植えられていた)/2021年4月6日撮影

★続く余効変動
 地震後も断層が滑り続ける事を余効変動(余効滑り・粘弾性緩和)という。国土地理院はSAR(合成開口レーダー・Synthetic Aperture Radar)衛星)衛星のデータによる空間分解能n地殻変動データとGEONET((連続観測システム・GNSS Earth Observation Network System)により、熊本地震後も九州全体で余効変動が進行していることを明らかにした(上図)。とくに震源域周辺における解析の結果、地震時に大きく滑った布田川断層帯の布田川区間近傍域では西向き及び隆起が、その周囲では東向き及び沈降の変異が見られた。
 地震には断層面を境に両側が上下方向に動く「縦ずれ型」と水平方向に動く「横ずれ潟」がある。熊本地震は横ずれ型で、地震を起こした布田川・日奈久断層帯周辺の地表が割れて水平に動いたもの。地震から5年目に現地を調査した東北大学の遠田晋次教授によると、御船町高木地区で確認された横ずれ(50㎝)は、地震後1年間でさらに約20㎝拡大したものとみている。遠田教授は「余効滑りは次第に収まると考えられるが、周囲にひずみが伝わった可能性がもある」と指摘し「日奈久断層帯のうち南側はずれ動いていない。とくに南側地域への影響を詳細に調べる必要がある」と語っている。

前述の地表地震断層付近の大蛇(おろち)伝説
熊本県益城町の布田川断層帯・地表地震断層に隣接する大蛇伝説の堂園池/2021年4月6日撮影

上の写真/地震直後の水前寺成趣園参道/2016年4月16日撮影
下の写真/熊本地震から5年の水前寺成趣園入口・(石灯篭の代わりに狛犬を設置)/2021年4月8日撮影
熊本地震から5年目/水前寺成趣園入口の狛犬/2021年4月8日撮影

上の写真/地震直後に干上がった水前寺成趣園の池/2016年4月18日撮影
下の写真/地震5年目・水を湛えた水前寺成趣園の池/2021年4月6日撮影

上の写真/地震直後の建物倒壊(益城町惣領)/2016年4月16日撮影
下の写真/地震5年目・同じ場所に再建された建物/2021年4月6日撮影

上の写真/地震直後の14階建てマンション(エキスパンションの渡り廊下)/2016年4月18日撮影
下の写真/地震5年目のマンション(改修されていた)・両側の躯体には大きな損傷はなかった/2021年4月7日撮影

上の写真/地震後の阿蘇大橋崩落箇所と土砂災害跡/2016年4月18日撮影
下の写真/5年後の同じ場所からの光景(崩壊斜面の防災工事修了)/2021年4月7日撮影
下の写真は、反対側から見た崩落した阿蘇大橋/2021年4月7日撮影
熊本地震による阿蘇大橋崩落を後世に伝えるため、上の橋桁などを震災遺構として遺すことになった/2021年4月7日撮影
自宅へ戻る途中、地震、落橋に巻き込まれる
 2016年4月16日午前1時25分に発生した熊本地震(本震)によって落橋した阿蘇大橋。そのとき熊本市から阿蘇市の実家に戻ろうとしていた学生・大和晃(ひかる)さん(当時22歳)が橋の崩落に巻き込まれ行方不明になったとみられていた。大和さんは4月16日午前0時半ごろ、熊本市東区の友人と別れて自宅に向かっていた。午前1時25分、最大震度7を観測する大地震が発生。その時間帯に阿蘇大橋付近を車で運転中だったという目撃証言もあった。しかし、阿蘇大橋付近は大量の土砂が流れ込んでおり、捜索は人員を現場に出すのを避け、遠隔操作による無人の重機を投入してきた。しかし、付近の斜面に新たな亀裂が見つかるなど二次災害の恐れも出てきた。熊本県の蒲島郁夫知事は半月後の5月1日、安否不明となっている大和晃さんについて、南阿蘇村で警察などが続けてきた地上の捜索をいったん打ち切ると発表。阿蘇大橋の崩落現場近くで二次災害の恐れが高まり、これ以上の捜索は危険と判断したという。今後は週1回程度、ヘリコプターによる捜索を続け、監視カメラによる確認に切り替えた。
両親の執念実る
 熊本県警などの地上捜索が打ち切られたあとも、晃さんの両親や知人たちはあきらめなかった。家族は休職するなどして連日川に沿って手掛かりを探し続けた。また、下流の大津町で情報提供のお願いチラシを配布したりした。地震発生から2か月以上過ぎた6月23日、落橋した阿蘇大橋から5㎞下流で土砂に埋もれた金属が発見される。晃さんが乗っていた車と同じ黄色い塗装だった。しかし、そこに晃さんの姿や痕跡はなかった。そしてさらに1か月後の7月24日、阿蘇大橋下流400m付近で大きな岩に挟まった車体の一部や車のエンブレムの一部が見つかる。両親は車体の一部とみられる写真を持って県庁を訪れ、捜索再開を要請する。県も捜索再開を決め8月9日、地上での本格捜索を再開。その翌日、晃さんとみられる遺体が車の中から発見された。紺色の着衣の一部と免許証など見つかり遺体が収容された。両親や知人たちの執念が遺体発見につながった。
 8月21日、晃さんの告別式がしめやかに行われたた。父親の卓也さんは「晃は小さいころから物静かで言い争いをすることもなく、笑顔のかわいい子供でした。農業の手伝いもしてくれ、母親の炊事も手伝う優しい子でした」と会葬者に挨拶した。告別式から約1か月経った9月17日、卓也さんはひとりで稲を刈った。いつもは晃さんもl稲刈りを手伝っていた。地震があった4月16日、晃さんが未明に車で自宅へ戻ったのも、早朝からの種まきを手伝うためだったという。晃さんのご冥福をお祈り申し上げます。

新阿蘇大橋/2021年4月7日撮影
国道325号線の旧阿蘇大橋は熊本地震で崩壊したため、約600m下流側(南側)に延長525mの新阿蘇大橋が2021年3月に開通した
雄大な阿蘇山を背景に黒川の深い渓谷を跨ぎ曲線を描く新大橋に平日でも観光客が多数押し寄せている
新阿蘇大橋/2021年4月7日撮影

着工からわずか4年の短工期で完成させた大成建設の技術
★プレストレスト・コンクリート(PC)ラーメン構造
 新阿蘇大橋の計画・設計では、熊本地震と同規模の地震が発生しても甚大な被害とならないように工夫が凝らされている。旧阿蘇大橋は土砂の流入による落橋ではなく断層が動いて両岸から橋に圧力が加わり損壊したものとされている。そこで橋の線形を断層とできるだけ直交するように設定しプレストレスト・コンクリートラーメン構造としている。
★インクライン
 新阿蘇大橋は橋長は345メートル、深い谷底に3つの橋脚を建てなければならなかった。当初の設計では斜面上に仮設する「段差桟橋」の上でクレーンを使って掘削土砂の搬出や資機材の搬送を想定していた。しかし、段差桟橋では深礎工で発生する土砂や資機材を安定して運搬できない恐れがあった。そこで、橋梁工事では実績のない60トンの積載能力をもつインクライン(下の写真)を採用した。
 インクラインとは、斜面に敷いたレールの上を動く台車で物資を運ぶ装置。新阿蘇大橋工事で使われた台車のサイズは14メートル×9メートルの国内最大級。2台の大型車両を載せることができる。移動に必要な時間は片道約8分。大成建設関西支店土木技術室の藤本大輔課長は「作業を中断することなく資器材もの搬送が出来たことで工期短縮に大きく貢献した」と語る。
↑インクライン

黒川の右岸側に設置するPR2橋脚基礎部分の掘削・半円形の土留め工法を採用
桁内部に配置された外ケーブル



新阿蘇大橋/2021年3月完成/出典/日経XTECH


熊本地震で大きな被害を受けた東海大学阿蘇キャンパス/現れた地表地震断層は震災遺構として保存されている
熊本地震発生前は布田川‐日奈久断層帯は阿蘇山までには至らないとされていた
しかし、実際には旧東海大学阿蘇キャンパスがある阿曽カルデラ内にも活断層があったことが証明された
地表地震断層はキャンパス全域を貫いて断層を挟んで40~50㎝の右横ずれを1㎞にわたり引き起こした
2021年4月7日撮影

玄関前にできた段差(地盤沈下)と校舎の損壊/2021年4月7日撮影

耐震補強されていた左側校舎の被害は少なくガラス一枚割れなかったが、対策されていなかった右側校舎は大きな被害を受けた

東海大学阿蘇キャンパス近くの「阿蘇元気の森」・ファームランド駐車場からフロントに向かう地下通路
上の写真の白い矢印部分が右側に約40~50㎝ずれるなど、まっすぐだったトンネルが蛇行している
断層運動の影響とみられている/2021年4月7日撮影

応急危険度判定で「危険」と判定された益城町役場/2016年4月19日撮影

益城町の仮設庁舎/2021年4月7日撮影

益城町新庁舎造成工事中/2021年4月7日撮影

益城町新庁舎完成イメージ
★新庁舎建設概要
・主要用途/庁舎(町役場)
・階数/地上4階建て
・敷地面積/14,128平方メートル
・延べ建築面積/6,865.98平方メートル
・エレベーター/15人乗り2基
・竣工予定/2022年度中
・付帯設備/復興まちづくり支援施設
・駐車台数/250台程度
・駐輪台数/110台程度

ピーク時4万7千人が応急仮設住宅(借り上げ住宅を含む)に入居していたが
5年目を迎えた2021年3月末での入居者は、418人(うち益城町281人)となってい/2021年4月7日撮影

上の写真のように全壊建物を建て替えた真新しい建物も多いが、一方で雑草生い茂る空地も目立つ
個人個人の資力や家庭環境によって暮らしの復旧は大きく異なっている

震度7でも無事だった建物の左側に2軒の住宅が建っていたが、5年経っても空き地のまま/2021年4月7日撮影

日本財団の協力で建てられたコミュニティセンター「みんなの家」(西原村大切畑地区)

ほぼ復興した「奇跡の集落」/2021年4月7日撮影
★奇跡の集落
 布田川断層帯近くにある西原村大切畑地区は、全戸数26戸・約100人が住む小さな集落である。2016年4月16日午前1時25分の熊本地震(本震)で震度7の大きな揺れに襲われ9割の住宅が全壊。集落の自治消防組織の4人が二手に分かれて地区住民の安否確認に回った。家の下敷きになった人は9人いたが、懐中電灯の明かりを頼りに住民たちが必死に救助活動にあたり、犠牲者はゼロだった。これほどの甚大被害がありながら犠牲者を出さなかったことは驚異的だとして「奇跡の集落」と呼ばれている。町内会の区長さんたちに話を聞くと「日頃の人間関係・絆が生きた」という。普段から「先祖まつり」「飲み会」「女性の会」など、様々な地域の集まりがありまるでみんなが親戚のような親密な付き合いをしていた。大地震発生時も「どこの誰の姿が見えない」と、隣近所ですぐに安否確認ができた。それぞれの家族構成までみんなが知っていたことが奇跡を生んだともいえる。私の提唱する「互近助」「防災隣組」を実践していた集落である。

上の写真は地震直後、車中泊の車約2000台で埋まったグランメッセ熊本の駐車場/2016年4月18日撮影
下の写真は熊本地震5年目のグランメッセ熊本の駐車場/2021年4月7日撮影
車中避難所の整備を急げ
 地震後に実施された熊本県県民アンケート(左図)によると、地震後に夜を過ごした主な場所を問うと、自宅が41%だったが車内と答えた人は28%に上った。避難所に避難した人の2倍以上の人たちが車の中ですこしたのである。被害が多かった地域全体で延べ約10万人が車中避難(車中泊)したと推計されている。
 熊本地震の前震と本震に続き、益城町周辺では震度6弱以上の地震が3日間で7回発生していて比較的築年数の新しい建物も被害を受けていた。そのうち6回は夜間・未明に発生していて、暗くなると地震が起きると室内で寝ることができない人が多かった。また、車中避難の理由の主なものは「避難所が満員だったから」「ペットがいるから」「高齢者や乳幼児がいるから」「避難所では眠れないから」「プライバシーが保てないから」等の理由を挙げる人が多かった。当時は避難所以外への避難者は正式な避難者数にカウントされず、支援の遅れ物資不足に拍車をかけた。その数か月後「止むを得ず避難所以外に避難した人も避難者とすべき」となった。
 ただ都市部では道路の混雑や適切な駐車場がないため、大規模再議鯵の車での避難を禁止し「原則徒歩避難」としている地域も多い。それも一理ある、津波警報や避難指示でみんなが一斉に車で避難したら道路は大渋滞を引き起こし、結果として逃げ遅れることも懸念される。
 しかし、大雨や洪水などで予防的に避難できる場合や、住民数が少なく渋滞のおそれがない地域であれば「車で避難」は合理性のある避難方法である。というより、身体が不自由な高齢者、乳幼児、妊産婦、肢体不自由者などは車でしか避難できない。また、現在のようにコロナ禍であれば、どこの避難所も収容定員数を半減させているため、多くの住民が避難所に行っても満員の憂き目にあう。そのため、多くの自治体は親戚宅や知人宅など避難所以外の安全な場所への分散避難を呼びかけている。しかし、すべての住民が近くに安全な親せきや知人をもっているわけではない。一定の条件を確保できれば、市町村は「車中避難用指定避難所」を設置すべきである。
 熊本地震による直接死は50人だったが、その後の避難生活で亡くなり、震災関連死と認定された人は222人と直接死の4倍以上。関連死の主な死因として挙げられているのは「避難生活のストレスなど心因的要素」「避難生活中の持病の悪化」。今後、震災関連死を防ぐためにも避難所の環境改善だけでなく、地域特性、住民特性に合わせた指定避難所の多様化と車中避難所の整備が焦眉の急である。



被災者の皆様の一日も早い生活再建をご祈念申し上げます

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