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大地震津なみ心え之記碑

JR湯浅駅 深専寺 山門脇の碑

 JR紀勢本線「湯浅駅」(写真)から東南方向に歩いて数分のところに浄土宗・深専寺がある。その山門入り口の左側に「大地震津なみ心え之碑」がある。
 嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日(新暦12月24日)、突如発生した安政東海地震安政東海地震(M8.4)に続き、その32時間後には安政南海地震(M8.4)が連続して襲った。強烈な揺れを繰り返し、ついには大津波を伴って和歌山県有田、由良地域を阿鼻叫喚の地獄に陥れた。ここ湯浅地区や隣町の広村も大きな津波に襲われ未曾有の被害を受ける。
 地震発生2年後、安政三年11月、深専寺住職善徴上人(承空上人)の代にこの碑が建立される。石の高さ1.8m、幅62cm、台石とともに高さ2.65m。全文528文字は平易な仮名交じり文。現在和歌山県指定文化財となっている。裏面に建立に寄与した人々の名前が刻まれている。
 碑文は、南海大地震の概要を記すとともに、「万一地震が発生したら、この寺の前を通って天神山のほうへ逃げよ」と教えるなど、具体的な避難経路を指し示し、また、言い伝えだけにとらわれないようにと、後の人を戒めたものでもある。150年前にこの碑を建てた先人たちの知恵と慧眼に脱帽する。
 ツナミ(tsunami)という言葉が世界共通語であるように、日本の海岸線には津波がたびたび襲来し、そのたびに多くの犠牲者を出してきた。そのため、日本中に津波による犠牲者の供養塔が数多くあるが、この碑は生々しい津波の恐ろしさを伝えるとともに、より具体的な避難方法までを記した世にも珍しい防災の碑である。
 この碑文にあるように、一つの言い伝え(津波の前に井戸水が変化する)だけに惑わされず、海岸線の場合は地震イコール津波警報と受け止めなければならない。災害犠牲者の死を無にしないためにも災害が発生したら、犠牲者を悼むだけでなく、後世への教訓を残すことこそ重要と考える。
 また、地震列島に住む作法として、ここで今地震が発生したら、津波が来たら具体的にどう行動するかを常にシュミレーションし、緊急対応を単純明快にしておく必要があると、この碑は教えてくれている。
 湯浅は熊野古道が通り、醤油発祥の地、シラウオでも知られている歴史の香る街である。そして、防災対策、津波対策の真髄がここ湯浅町と隣の広川町にある。全国の防災関係者は、一度はこの碑と広村堤防稲むらの火広場を訪れ、今一度防災の基本を学ぶべきではないだろうか?
 山村武彦

 
 大地震津なみ心え之記碑

 碑文正面(原文)


 嘉永七年六月十四日夜八ッ時下り大地震ゆり出し翌十五日まで三十一二度ゆりそれより 小地震日としてゆらざることなし 二十五日頃ゆりやミ人心おだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ッ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し 川口より来たることおびただしかりとも其日もことなく暮て 翌五日昼七ッ時きのふよりつよき地震にて 未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり 津波といふやうな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき 家 蔵 船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろし なんといはんかたなし これより先地震をのがれんため濱へ逃 あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ 溺死の人もすくなからず すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれまれになり 行ものなれハこの碑を建置ものそかし 又昔よりつたへいふ井戸の水のへり あるひハ津波有へき印なりといへれども この折には井の水乃へりもにごりもせざりし さすれハ井水の増減によらずこの後萬一大地震ゆることあらハ 火用心をいたし津波もよせ来へしと心え かならず濱邊川筋へ逃ゆかず 深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし    恵空一菴書

 大地震津なみ心え之記碑
 碑文正面(現代語訳)
 嘉永七年(1854)六月十四日、深夜三時頃、大きな地震が起こり、翌日の十五日までに三十一、二度揺れ、それから小さな地震が毎日のように続いた。六月二十五日頃になってようやく地震も静まり、人々の心も落ち着いた。
 しかし、十一月四日、晴天ではあったが、午前十時頃また大きな地震が起こり、およそ一時間ばかり続き、瓦が落ち、柱がねじれる家も多かった。河口には波のうねりが頻繁に押し寄せたが、その日も大きな被害などもなく、夕暮れとなった。
 ところが翌日の五日午後四時頃、昨日よりさらに強い地震が起こり、南西の海から海鳴りが三、四度聞こえたかと思うと、見ている間に海面が山のように盛り上がり、「津波」というまもなく、高波が打ち上げ、北川(山田川)南川(広川)原へ大木、大石を巻き上げ、家、蔵、船などを粉々に砕いた。其の高波が押し寄せる勢いは「恐ろしい」などという言葉では言い表せないものであった。
 この地震の際、被害から逃れようとして浜へ逃げ、或いは船に乗り、また北川や南川筋に逃げた人々は危険な目に遭い、溺れ死ぬ人も少なくなかった。
 既に、この地震による津波から百五十年前の宝永四年(1707)の地震の時にも浜辺へ逃げ、津波にのまれて死んだ人が多数にのぼった、と伝え聞くが、そんな話を知る人も少なくなったので、この碑を建て、後世に伝えるものである。
 また、昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。
 そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること。 恵空一菴書

 山村武彦の津波防災三か条
1、「グラッときたら、津波警報」
 地震の揺れを感じたとき、緊急地震速報を見たり聞いたりしたとき、海岸周辺や海岸近くの河川周辺にいたら、津波警報と思って直ちに高台に避難することです。津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」です。小さな揺れだからといって油断せず、ラジオやテレビで情報を確認してください。明治三陸地震津波のときは「震度3」の小さな揺れでしたが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になりました。地震後、大声で「津波が来るぞー、早く逃げろー」と大声を上げながら駆け足で逃げてください。人は誰かが逃げるとつられて逃げるものです。あなたの声が「津波警報なのです」
2、「俗説を信じず、最悪を想定して行動せよ」
 津波はいつも同じパターンで同じ場所を襲って来るとは限りません。一度引いてから押し寄せてくる津波もあれば、いきなり高波が襲ってくる場合もあります。また、前回襲われなかった海岸が大津波に襲われたこともありますので、常に最悪を考えて行動すべきです。「波が引いてから津波が来る」とか「ここは過去津波がきたことがない」などの俗説を信じてはいけないのです。防災訓練と思って声を上げながら、駆け足で避難してください。
3、「できるだけ早く高台へ、無理なら近くの高いビル」「車は使わず・遠くより、高く」一度避難したら戻らない。
 「津波は高台へ逃げるが勝ち」、しかし海岸付近にいて、高台まで避難できそうもないときは、ビルの4階以上に避難させてもらうことです。地域によっては海岸線にあるビルの協力を得て津波避難ビルとしたり、津波シェルターを設置しています。車で避難するのは危険です。北海道南西沖地震(1993年)のとき、奥尻島では車で避難しようとした人たちが続出し、狭い道路が渋滞しているときに津波に襲われ、車ごと津波に飲み込まれ多くの犠牲者を出しました。(しかし、高齢者や障害者は短時間に高台に避難するには車しかありません。ですから健常者は極力駆け足で避難して要援護者の車が渋滞しないように心掛けてほしいと思います】「できるだけ高い所へ」を合言葉に近くのビルなどに避難すべきです。そして、第1波が小さかったからといって自宅へ戻ったりしないことです。津波は繰り返し襲ってきます。警報が解除されるまでは「念のため避難」を続けましょう。

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