★7万人を救った浅草公園  ★希望を与えた震災イチョウ ★100年前の「トモダチ作戦」 ★朝鮮人300人を救った警察署長 世界へ発信し続けた富岡局


関東大震災のちょっといい話
神田佐久間町「防火守護の地」/町を守り抜いた人々
関東大震災100周年・写真レポート/山村武彦

★関東大震災の奇跡/町を守り抜いた人々・神田佐久間町の「防火守護の地」
 千代田区立和泉小学校横にある和泉公園(江戸時代の旗本屋敷跡)に防火守護の地の石碑(上の写真)がある。それには「この付近一帯は大正十二年 九月一日関東大震災のときに 町の人が一致協力して防火に努めたので 出火をまぬかれました。その町名は次の通りであります。佐久間町二丁目、三丁目、四丁目、平河町、練塀町、和泉町、泉神田三丁目、佐久間町一丁目の一部、松永町の一部、御徒町一丁目の一部」と書かれ、建立者「昭和四十三年四月二十四日、佐久間小学校長、地元有志、秋葉原東部連合町会」となっている。昭和43年(1968年)は関東大震災から数えて45周年目の節目となり、それを機にこの碑が建立されたもの。この石碑は当初今川小学校と佐久間小学校が統合された千代田区立和泉小学校の校門横にあったが、和泉小学校建て替えに伴い現在地に移転された。
 関東大震災では犠牲者の87%が焼死とされる。地震後発生した火災により神奈川県、東京府などで多くの人が犠牲になり町が焼けた。当時の東京市15区総面積の44%が9月1日と2日の2日間の猛火で焼失。周りが全て焼けた下町にぽっかりと焼け残った町がある。それが後に関東大震災の奇跡と呼ばれる神田区佐久間町と和泉町など1,630戸の町である。ここはJR秋葉原駅(当時は万世橋駅)から至近距離にあり商家だけでなく下町独特の長屋なども軒を連ねた住宅密集地でもあった。
関東大震災の概要
★佐久間町ではなく、悪魔町
 東京湾の品川沖から隅田川をさかのぼり神田川に入って御茶の水橋手前の両岸が別名米屋河岸とか材木河岸と呼ばれた佐久間河岸と柳原河岸である。江戸〜大正時代、この河岸に海路・水運を経て全国から様々な物資が荷揚げされ、馬力や荷車で東京府内に、そして万世橋駅からの貨車などで全国各地へと物資が流れていった。そのため、町は殷賑を極め、和泉町、佐久間町界隈は商人と物流の一大流通拠点となっていた。佐久間河岸一帯には米問屋の店舗、米蔵、材木店、薪炭問屋、馬力屋、人足小屋などが軒を連ねていた(佐久間町という地名も材木商 佐久間平八の姓に由来している。佐久間平八は江戸城普請の際に大半の材木を供給した豪商である。また、和泉町の由来は藤堂和泉守様の江戸上屋敷があったことによる。上屋敷は和泉小学校までの西側約1万5千坪の面積があったといわれる)。材木置場も数多くあったため、この町から出火することが多かった。
 例えば、「佐久間町の火事」ともよばれる「文政の大火」は、文政12年(1829年)3月21日に神田佐久間町の材木小屋から出火する。火は北西風の強風にあおられ一気に延焼し、日本橋、芝、京橋、新橋まで江戸の中心街を焼き、死者は2800人・焼失家屋37万軒といわれている。
 また「甲午火事」は、天保5年(1834年)2月7日に神田佐久間町から出火し、折からの強風で各地に飛び火し延焼して江戸の大半を焼きつくした。この火事による死者は約4000人といわれる。当時江戸の人口は推定100万人といわれ、今の約1/10という比率から類推すると現代であれば約4万人の死者に匹敵する大惨事であった。(下の画像は「甲午火事を伝える『江戸かわら版・出火場所方角附』」神田佐久間町貮丁目から出火と記されている)。
 「またも火元は佐久間町」と、たびたび江戸中を恐怖に陥れ大火の出火元となった佐久間町は、佐久間町でなく「悪魔町」と呼ばれることもあった。幕府もこの地に対し厳しい措置を取り、火元となる可能性のある材木置き場は深川方面へ、延焼を防ぐため現秋葉原の一部などに火除地(ひよけち)をつくるための区割り替えなどで住民は強制移住させられたりした。佐久間町の住人たちはそうした町の忌まわしい過去を払しょくするため、火の元、火の始末にはことのほか気を配った。他の町よりも多くの天水桶を辻々に置き、火の用心を怠らないように努めるとともに、長老たちは「何があってもこの町から火を出してはならない」と人々を戒め、毎晩の見回りを行うと共に繰り返し火消訓練も行っていた。
 ちなみに明治2年(1870年)12月12日にも、一時佐久間町から出火とされる大火が発生するが、その火元は佐久間町ではなく、神田区相生町20番地の塗り師職・金次郎宅だった。ことほど左様に神田で火事と聞くと「またも火元は佐久間町」と疑われるほどであった。
 そうしたなか、大正12年9月1日未曾有の関東大震災が発生する。この町は長老の戒め通り火の始末を徹底すると共に、燃え上がった火災は地域の人たちが協力して消し止める。まず、ミツワ化学試験所から火の手が上がる。これは万世橋消防署のポンプで消し止める。次に東京衛生試験所から出火するが、これも三井慈善病院(現在の三井記念病院)の消防隊により消火された。しかし、昼過ぎには周辺の町の火災は強風にあおられ短時間のうちにみるみる燃え広がり遠く近くで煙が上がり、神田佐久間町界隈にも火の粉がバラバラと落ちてくる。周辺の町で火に追われた人々は警察官などの誘導で隅田川を渡り本所の方へ続々と避難していく。浅草方面から火の手が迫り、町の人たちも避難しはじめようとした時、神田川に架かる和泉橋と美倉橋に町内会長や貴族院議員など町のリーダーたちが立ち「この町のもんは逃げてはいけない、桶やバケツを持って集まってくれ」と呼び掛けた。それを聴いた人たちは「ハッと」我に返り、これまでに語り継がれ聞かされてきた戒めを再度思い起こすのであった。
★火と闘いつづけた人々
 呼びかけに応じ、働けるものは桶やバケツを持ち寄り集まった。体の不自由な者、子供たち、高齢者たちは在郷軍人会の人たちが付き添い上野公園へ避難させた。当時、東京市の消防体制は、警視庁消防部の六消防署とその傘下に編成されていた市部消防組によって成り立っていた。市部消防組は江戸時代の町火消の流れをくむ鳶職人のグループで、構成員は予備消防員と呼ばれていた。当時の東京市の主な装備は消防ポンプ自動車38台を主力とし、市部消防組には消火栓直結のホースが配備されていた。東京は街の隅々まで消火栓を持つ水道が敷設されていたが、地震ですべて損壊・断水し市部消防組は一挙に無力になってしまう。100万人都市にしてはあまりにもぜい弱な消防力であった。そして、しばらくすると神田和泉町界隈を管轄していた万世橋消防署の消防隊は命令で日本橋区へ出動してしまう。
 和泉町には震災の前年に「和泉町ポンプ所」が建てられていた。佐久間町の人々はポンプ所の貯水池や神田川の水をくみ上げ、瓦の落ちた屋根に火が付くとバケツリレーで消火した。しかし、それでも風にあおられ最大で1時間に約820mと推定される猛烈な延焼速度で火は迫ってくる。
 近くに帝国嘲筒(ぽんぷ)株式会社があり、目黒消防署へ納入前の消防ポンプを借り、三井慈善病院に設置されていた自衛用消防ポンプが心強い味方だった。このポンプ2台を火が迫る地域に配備・放水して火勢を弱め、そこをみんなのバケツリレーで消火する作戦だった。消防ポンプのガソリンは住民たちが手分けして集めて必死で消防力を維持し続けた。
 近隣の市村座、三井慈善病院、内国通運會社(現在の日本通運�蝓砲亮勸�たちも町の人たちと一緒に消火活動に加わった。そうした企業のコンクリート建物、レンガ塀、石造り倉庫などが一部防火壁となって延焼を食い止め火勢を弱める働きをした。しかし、猛火は時間と共に激しさを増し、記録によると強風で巻き上げられた火のついたタタミ、焼け焦げたトタン板、火のついた数メートルの柱などが火の粉や煙と共にすさまじい勢いで落ち、あるいは吹き飛ばされてきたと記されている。それには布団やムシロを濡らし数人がかりで叩き消し、棒の先に水に濡らしたボロ布などを取りつけた火バタキなどの「飛び火防ぎ」で迎え撃つ。延焼してくる火の道を押さえ勢いを止める防火帯をつくるため、鳶口、掛矢、鋸などで住宅を破壊する「引き倒し」(破壊消防)で防いだ。
 夜になっても火は衰えることなく町の三方から迫ってくる。それでも彼らは怯むことなく一晩中火と闘い続ける。しかし、2日め未明から朝にかけて、今度は蔵前の方から火が猛烈な勢いで迫ってくる。すぐそばで火災旋風も巻き起こった。人々が一睡もせず火との闘いに疲れ果てたころ、恐れていたことが起こってしまう。それは、佐久間小学校二階建て木造校舎の屋根に火がついてしまったのだ。
 これまで一昼夜頑張ってきたが、町の真ん中にある小学校が燃えたらこの町はもうおしまいだと思った人が多かった。皆がもうだめだと思ったとき、諦めない人たちがいた。それは卒業生や中学生たちが自分たちの学校が燃えていると聞き続々と集まってきたのだ。そして、自分たちでバケツリレーを開始する。二階の教室に机や椅子を積み重ね、二階の天井と屋根を破り必死の消火活動を続けたが、強風にあおられた火は消えるより燃え広がっていく。しかし、子供たちの必死の消火活動を見て、もうだめだと思っていた人たちも一人二人とその列に加わり、最終的には200人を超える人々が佐久間小学校の火災に立ち向かっていった。大勢の力が結集され、必死の消火活動が功を奏し9月2日午後6時ごろについに火を消し止めてしまう。そのころになって町に迫っていた火も下火になり風向きも変わった。町の人たちが一致協力してついに町を守り抜いたのである。
 9月3日の朝が明けた。見渡す限り跡形もなく燻り続ける焼け野原の中で、神田佐久間町と和泉町などの町だけが残った。東京府(東京都になるのは昭和18年)は、昭和14年(1934年)、この地域一帯を範とすべきと「町内協力防火守護之地」に命名指定し、人々の心意気を称えた。そして、ついに佐久間町は悪魔町の汚名をも払しょくしたのである。この町に残る石碑(防火守護之地)は、ただ逃げる防災だけでなく、安全が確保できた元気な人は不条理な災害と闘う勇気も必要ということを教えてくれている。人々の働きで佐久間河岸米蔵の13,000俵(780,000�圈砲�焼け残った。その米は震災後多くの命を救うことになる。
 しかし、関東大震災から22年〜23年後の太平洋戦争末期、米軍は執拗な無差別空爆と焼夷弾で日本の都市と住民を襲った。この神田佐久間町も一面焼け野原となる。一説には、防火守護之地の先人に続けと、逃げずに消火活動にあたり多くの人が犠牲になったという話もある。「一つの教訓はすべての教訓にならず」である。首都直下地震後の初期消火など、力を合わせて立ち向かうべき災害と、津波・洪水・土砂災害・ミサイル攻撃・爆撃・テロなどのように一目散に避難すべき災害や戦争・争乱があると認識し、時と場所と状況に応じ臨機応変に対応することが真の防災・危機管理ではなかろうか。(太平洋戦争時のことは後述)
上の地図は明治40年に東京郵便局から発行された「東京市15区図・1/5000」抜粋
大正12年の関東大震災時はほぼ同じ区割りとされている
神田川の北側が佐久間河岸、佐久間町、和泉町と街並みが続いている
赤い丸印が佐久間小学校

 火の手に追われ上野公園目指して避難する人々/1923年9月1日午後3時ごろ

関東大震災で焼け落ちた万世橋駅・震災直後は遺体安置所に利用された
駅前の像は日露戦争で軍神とあがめられた広瀬中佐の銅像
国有化された甲武鉄道により1912年に万世橋駅開業(東京駅と同様に建築家辰野金吾氏による設計の赤煉瓦造り)
1919年、万世橋〜東京駅間が開通、中央本線起終駅の役割を東京駅に譲る
関東大震災後、簡素な駅舎が再建されるも、神田駅、秋葉原駅が開業したため、万世橋駅の乗降客は激減
1936年駅舎は解体縮小され、東京駅から鉄道博物館が移転してきて、駅舎は博物館の一部となる
駅舎資材は新設された京浜東北線子安駅に再利用されたといわれる
駅前の銅像は太平洋戦争終結後撤去され、交通博物館も2006年に閉鎖され施設は2010年までにすべて取り壊された
「万世橋駅」の駅名はさいたま市大宮の鉄道博物館のミニチュア駅に受け継がれている
交通博物館跡地にはJR神田万世橋ビルが建設され2013年1月に竣工した(下の写真・2013年7月)
下の赤煉瓦が万世橋駅の面影を残し、ここの中はショッピングアーケードとなる


 
JR神田万世橋ビル

中央気象台(時計が関東大震災が襲った11時58分ころで止まっている)
中央気象台長の奔走で後世に残った震災いちょう

 
関東大震災でこれほど早い延焼速度で広範囲の地域が焼失した理由の一つは、当時の気象条件にある
前夜九州にあった台風は、9月1日地震発生時には能登半島に達していた。関東では所により吹き返しの強風(約10〜22m/s)が吹き荒れていた
麹町気象台の記録によると、地震発生時は南の風、その後西から西北西で19時に13.1m/s、20時には18.1m/sという風速を観測している
風向は、地震発生直後1日昼過ぎに南風、夕方には西風になり、夜は北風、2日朝からは再び南風とめまぐるしく変わっている。

寺田寅彦氏の手紙
(寺田寅彦全集より・1923年9月29日付、小宮豊隆氏にあてた書簡から抜粋)(当時:東京帝国大理科大学教授)
 「九月一日の朝は低気圧模様でときどき豪雨が襲ってきた。九時過少し小降りになったので、二科展(上野)の初日を見ようと思って出かけて行った。一辺見てしまってから津田君(津田青楓氏)に会って、それから紅茶をのみながら話をしていた。場内は非常に蒸し暑かった。十二時近くになったからもうそろそろ出掛けようと思っていると地震がやって来た。始めの急な運動が済むかと思っていると、その後からゆっくりした著しい水平動が襲ってきて、会場の屋根が目に見えてゆらゆらと南北に揺れ始めた。大地がちょうど波の上にのってでもいるように、揺れてなかなか静まらない。これは大きな地震だと思った。まさかこの家が倒れそうもないと思ってそのまま腰かけていた。(中略)
「山王台の方から吹いている風が妙にゴミ臭くてちょうどすす払いのときのようにむせっぽいので、これはことによると倒壊した家があるかもしれないと思った。東照宮前まで来ると、あの石灯籠の行列がほとんど全部将棋倒しに北の方へ倒れている。鳥居はちゃんと立っているが、上の横に渡した石の中央の継ぎ目が外れかかっていた。池の端へおりてみると、弁天の前の社務所のような所が倒れかかって、屋根瓦を全部ふるい落としているので少し驚いた。うちが少し心配になってきた。電車は全部とまっている。この向きではとてもダメだと思って、急いであるいて帰ることにした。根津は危険だからと思って、谷中から帰って来た。清水町辺は潰家もポツポツあり、傾きかかった家は多数にある。人はみんな道路の真ん中へ逃げ出し中には重病人をかつぎ出して来るものもあった。煉瓦塀はたいていめちゃめちゃに倒れ、土蔵なども壁や瓦がヒドク振り落とされている。団子坂へおりる所の狭い町では倒れかかった家が並んで危ない思いをした。(中略)
 大学の様子は助手が知らしてくれたので、理学部がよかったことだけわかったが、夜十時頃行ってみたら図書館がまだ盛んに燃えていた。一番奥の室の上の方の棚がめらめら燃えて下の方はまだ燃えていないのに、消防夫はもちろん、人気はなくてなんだか荒涼な心持がした。無事だと思った理学部も木造の数学教室が焼けて、本館も危なかったが、やっと助かったところであった。帰りには本郷三丁目の東海銀行のあたりを東の方へ燃えてゆくところであった」
 「二日は学校を見舞ってから浅草の妻の里の方へ様子を見に行こうと思って出かけた。本郷三丁目から神田明神へかけ一面の焦土で、余燼がまだ暑くて煙くて目が痛み、咽喉が痛んであるけない。焼け跡にはところどころ煉瓦やコンクリートの廃墟がそびえ、黒焦げになった樹木が立っているばかりである。地震で屋根を崩された土蔵は、中身が焼けた死骸になっている。順天堂でも女子高等師範でも明神祠でもみんな焼けてしまっている。道の中央には電車の焼けた残骸が立ち往生しており、上からは架空線が垂れ下がって頭につかえる。向こうからは避難者がひっきりなくつづいて来る。怪我人や、大火傷をして顔中ただれた人を肩にかけて来るものもある。頭髪から衣服まで泥だらけの人も来る。
 明神の坂から見ると、東橋「吾妻橋」だか厩橋だかが盛んに燃えている。市街はただ一面に煙ってどこが焼けているのか、残っているのか見当がわからない。松住町まで行ったが煙と余炎でとても進めないから、あきらめて引き返し、御茶ノ水のほうへ出た。御茶ノ水橋の上流の方には駿河台の崖が崩れて堀を埋めている。神田へ渡ってみるとここも全部焦土である。明治大学の前には道端に黒焦げになった死骸がころがっていた。気象台へ行って地震の記録を見ようと思ったが、一つ橋が焼けていて渡れない。くたびれ果てて帰って来ると、〇〇〇や社会主義者の放火や暴行があるから立ち退かねばならぬという騒ぎで、二日の夜は用意だけした。二日の夜は上野の方がまだ焼けていて人心不安であった。浅草の親類は皆焼け出されて避難してくる。西片町の同郷人は荷物を持ち込んで来る。その夜は十三人の避難者が集まって来た。」以上が地震当日とその翌日に関する記事である。(寺田寅彦氏は文京区白山でに住んでいたので、瓦が落ちた程度であったようだ)
 その後、関係者の安否が書かれたあと、この地震についての感想が述べられている。「今度の地震は東京ではそう大したことはなかったのです。地面は四寸(12センチ)以上も動いたが、振動がのろくていわゆる加速度は大きくなかったから、火事さえなかったら、こんな騒ぎにはならなかった。死傷者の大多数はみな火災のためであります。火災を大ならしめた原因は風にもあるが、地震で水道が止まったこと、地震のために屋根が剥がれて飛び火を盛んにしたこと、余震の恐怖が消防を委縮させたことなども大きな原因のようです。
 僕等は今度の火災のことの調査を引き受けて毎日毎日焼け跡をしらべて歩いています。夜寝ると目の前に焼け跡の光景ばかり浮かんで、焼死者や水死者の姿が見えて仕方がない。頭の中まで焼け野原になったような気がする。帝都復興院という厖大なものが出来るらしい。相変わらず科学を疎外した機関らしいようです。新聞に出るようなことは一々申し上げません。調査の必要から昔の徳川時代の大震災の記録を調べているが、今度われわれのなめたと同じような経験を昔の人がもう疾うになめ尽くしている。それを忘却してしまって勝手な真似をしていたためにこんなことになったと思う。昔に比べて今の人間がちっとも進歩していない。進歩しているのは物資だけでしょう。かえって昔の士民のやり口が今より立派なような気もします。〇〇が放火したなどという流言から無辜の人をずいぶん殺し、日本人までもムザムザ殺したのがずいぶんおびただしいそうです。〇〇をかばった巡査までも殺されたそうです。それば面白半分にやったのも大分あるらしい。明暦の大火では丸橋忠弥が放火して暴れるという流言があったそうですが、今度程の騒ぎにはならなかったらしい。今日はここまで」

下図出典:武村雅之氏著「未曾有の大災害と地震学−関東大震災」(古今書院)
 府県   住家被害棟数(棟)     死者数 (名)(行方不明者数を含む) 
   全半壊  焼失 流失・埋没   合計 住家全壊  火災  流失・埋没  工場等 合計 
神奈川県 89,668  35,412  497  125,577  5,796  25,201  836  1,006  32,838 
東京府  29,073 176,505  2  205,580  3,546  66,521  6  314  70,387 
千葉県 19,474  431  71  19,976  1,255  59  0  32  1,346 
埼玉県  8,845  0  0  8,845  315  0  0  28  343 
 山梨県 2,802  0  0  2,802  20  0  0  2  22 
 静岡県 8,523   5  731  9,259  150  0  171  123  444 
 茨城県 483  0  0  483  5  0  0  0  5 
 長野県 88  0  0  88  0  0  0  0  0 
 栃木県 4  0  0  4  0 0  0 0  0 
 群馬県 45  0  0  45  0  0  0  0  0 
 合計 159,005  212,353  1,301  372,659  11,086  91,781  1,013  1,505  105,387 
上図にあるように、関東大震災における被害の多くは火災によるものである(焼失家屋212,353棟・焼死者91,781名)
とくに東京府では、全半壊家屋数は29,073棟にもかかわらず、焼失家屋は176,505棟に上り
犠牲者も建物の下敷きで亡くなった人(3,546名)の約18倍以上が焼死者(66,521名)であることからも火災の凄まじさがわかる
しかし、火災を拡大した要因には昼時の建物倒壊による出火、密集木造住宅・強風による急速延焼拡大、消防設備の不備などがあげられる
また、全半壊建物159,005棟・住家全壊による3県の犠牲者11,086名という数字を見ると、建物の非耐震性と揺れの激しさも推定される
関東大震災は3県にまたがり激しい揺れをもたらした広域大規模地震と、津波・強風・大火によるによる複合大規模災害であった

 地震発生時が昼食の支度時間が重なり、136カ所から同時多発火災が発生する(9月1日午後1時ごろ)
 9月1日午後4痔ごろには消防機材の整っていなかった消防力では強風の中延焼を食い止めることはできず
火は火災旋風(火災竜巻)と共に短時間に拡大していき、隅田川の対岸も火が広がっていく
 9月1日午後9時には本所被服廠跡一帯は猛火に包まれていた
 
震災の翌日9月2日午前3時ごろには東京の下町から都心まで火は各所で合流し燃えつくしていった

 
赤く塗られたところが9月1日燃えたところ、緑色が2日に焼失した地域
矢印は延焼拡大して行った方向、赤い丸は火災旋風が巻き起こったところ
3日間にわたって首都東京が炎上し焼失したの
は明暦の大火(1657年3月2日〜4日・振袖火事)以来の大惨事である
大火となった主な要因は、昼食時で火を使っていたこと、密集木造住宅、強風、水道損壊などによる消防水利不足、消防機材不足
さらには、地震により瓦が落下してむきだしになった燃えやすい屋根下地に飛び火したこと等が挙げられている
 
9月1日と2日の両日の火災で東京中心部はほとんどが焼け野原になった
黒く塗られた地域が1日に燃え、薄く塗られた地域が2日に焼失した地域
ほとんど燃え尽きた中(上の図)で、中央に四角く白く焼け残った町、それが神田佐久間町と和泉町
その後、この焼け残った町のことが伝えられ「関東大震災の奇跡」と呼ばれるようになる

佐久間小学校は和泉小学校に統合され、佐久間町小学校跡地は現在佐久間町公園になっている

佐久間町公園に掲示された説明板
現在地となっているのが神田佐久間小学校跡

※震災で残った町が戦災で焼かれた
 関東大震災時、皆で守り抜いた町も昭和19年11月30日、昭和20年2月25日、3月10日など半年間にわたる米軍の執拗な空襲により、和泉町と佐久間町だけでなく東京の市街地はすべて焼け野原となった。(左は佐久間町付近)
 関東大震災発生直後、クーリッジ大統領以下米国の陸海軍は「トモダチ作戦」を展開し、焼け野原の中の日本を援け友情と誠意を示し日本人を感動させた。しかし、その22年後には震災で焼け残った町までも徹底的に破壊し焼き尽くし殺した。
 国家という摩訶不思議でコントロール不能の集合体は、人と人の信頼、友情、平和への希求を不条理に踏みにじって平然としている化け物である。

空襲被災図(左)をみると、関東大震災時における焼失地域とほぼ重なる。
 米軍は江戸の大火や関東大震災で東京が燃えやすい都市であることを熟知した上で、効率よく町を焼くため風の吹く日を選ぶなど周到に計算し作戦を敢行した。昭和20年3月10日の東京大空襲だけでも、B-29爆撃機約300機が0時から2時半ごろの寝静まった人々に向かって焼夷弾約2000トンを投下し街と民間人約10万人を殺害した。
 その時、関東大震災のように逃げないで火を消そうとした人たちが犠牲になったという話も聞く。害意を露わにした上空からの無差別攻撃、阿鼻叫喚の中をただ逃げ惑い炎熱地獄に罪なき人々が次々と力尽きて死んでいった。さぞ恐ろしかったであろう、さぞ無念であっただろう。
 危機管理は状況を見定めて臨機応変の対応が大切である。しかし、爆撃機300機の焦土作戦に対し、武器もない民間人に選択できる臨機応変の策など何もなかった。悔しく、腹立たしく、痛ましい限りである。

 
神田佐久間町小学校跡の公園はラジオ体操発祥の地
ラジオ体操は昭和3年(1928年)簡易保険局が 国民の健康増進のために国民保険体操と名づけて奨励する
これがラジオで放送されるとラジオ体操として全国各地にラジオ体操会が生まれる
 ここは当時万世橋警察署の面高巡査が町内会の人達と共に全国に先駆けて「早起きラジオ体操会」を始めたゆかりの地である
地震火災から町を守り、その町を空襲で焼かれた佐久間町の人々
敗戦を乗り越え復興に向かってラジオ体操と共に不死鳥のように立ち上がったまち
今もこのまちには向こう三軒両隣で助け合う「近助の精神」が脈々と受け継がれている

関東大震災時のお茶の水橋付近(神田川の一部が土砂崩れで堰き止められた)
現在の御茶ノ水橋(右側が御茶ノ水駅)から聖橋方面を望む
聖橋の向こうに神田和泉町と佐久間町がある

防火守護の地の石碑は和泉公園にある(奥に見えるのが和泉小学校)
関東大震災から2023年で100年、この100年間に100人以上の犠牲者を出す地震が16回発生している
つまり、日本という国は約6年に1度は大地震に襲われている国なのだ
もう次の大地震のカウントダウンは始まっている。災害が発生してからでは遅い、全ての防災対策は事前対策である
「奇跡は一夜にして起こらず、適切な準備、覚悟、行動があってこそ奇跡が起きる」
関東大震災、阪神・淡路大震災、東日本大震災を忘れず、多くの犠牲を払って得た教訓を活かすのは残されたものの責務である
被害者にならず、加害者にならず、傍観者にならないために、災害列島日本に住む覚悟と、命と社会を守る準備を怠ってはならない
 2020年/山村武彦

★関東大震災のちょっといい話
日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。2023年9月1日で関東大震災100周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する
 ★7万人を救った浅草公園  ★希望を与えた震災イチョウ ★90年前の「トモダチ作戦」 ★朝鮮人300人を救った警察署長

関東大震災の概要 世界へ発信し続けた富岡局 山村武彦

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