関東大震災のちょっといい話
★町を守り抜いた人々  ★希望の震災イチョウ
 ★7万人を救った浅草公園 ★100年前の「トモダチ作戦」 ★朝鮮人を救った警察署長

関東大震災(磐城国際無線電信局) 写真レポート/山村武彦
関東大震災のちょっといい話/震災直後から全世界に発信し続けた富岡無線局
 アメリカは1923年9月1日の夜、日本で未曾有の大地震と大火(関東大震災)が発生したことを福島県富岡町からの無線で知る。翌朝、クーリッジ大統領の決断と指示でアメリカは他国に先駆け直ちに救援・支援活動を開始し、各国の中で最大の対日支援を実行する。あの情報通信の困難な時代に奇跡的ともいえる迅速な「1923トモダチ作戦」を実現させた「ちょっといい話」がある。その主人公は福島県相馬郡原町(現 南相馬市)にあった磐城国際無線電信局である。磐城国際無線電信局とは、原町送信所(下の写真・現南相馬市)と富岡受信所(福島県双葉郡富岡町深谷)を併せて呼称されたものである。

★電気通信大学60周年史「第三節・関東大震災と無線通信」には次のように書かれている。
「都市部に起こった地震としては、最大級(マグニチュード七・九)の関東大地震が関東地方を襲ったのは、大正十二年九月一日、その発生時刻は午前十一時五十八分四十四秒と記録されている。またその被害は、死者九万一千三百四十四人、全壊焼失四十六万四千九百九戸となっている。被害は甚大と言わなければならない。さて、この天災は悲劇的な結果をもたらしたが、皮肉なことに無線通信にとってはその存在価値を痛みを感じるほど強烈に認識させるという意義をもった事件となったのである。逓信省通信局の小松三郎氏は、「大震災と無線電信の効果」と題し「電信協会会誌」第二百三十九号に寄稿している。今次の大震災は一日にして東京横浜を焦熱地獄と化せしめた。帝国の損失と不幸とは計り知ることができないが、無線電信の効果を顕現するには絶好の機会となった。東京市内には数多の研究用無線電信があったが、悉く電源を奪われたが故に、一日夜から二日三日に亙る各所の努力も水泡に帰し電力供給が復旧するまでは焼け残った無線電信すら使用に堪えなかったことは如何に震災に因る破壊力の強烈であったかを物語るものである。しかし被害を蒙らなかった横浜港多数船舶無線電信と銚子及潮岬無線電信局とは寸刻の猶予なく其の全能力を発揮した。而して磐城、大阪、下津井、角島、落石を始め各地の陸上竝船舶無線電信は直ちに此の震災地域内無線電信と相呼応して臨時震災関係通信を傍受し、最も迅速に震災情報を内外に伝介したのである。之等関係各局所の措置は洵に適当にして機宜を失せざりし為め救護竝保安取締を迅速ならしめたる効果甚だ大なるものがあった。なお、その詳しい内容についても以下に引用する。
 『銚子無線が横浜港船舶と震災通信を開始したのは、'実に大地震の後三十分即ち一日の午後○時三十分であった。十数隻の船舶無線から殺到する緊急電報を、空中整理に努めながち受信した通数は午後五時までに百数十通に達した。潮岬無線は午後一時十七分以来之等通信を傍受して機宜の措置に依り大阪へ伝介し、また銚子無線は之等重要電報を午後五時から西は潮岬無線へ向けて伝送を開始し、東は午後九時三十分から落石無線へ連絡した。かのコレヤ丸にて神奈川県警察部長発大阪、兵庫其の他の各府県知事宛救援第一公報及び大阪朝日竝大阪毎日宛情報の第一信も実にかくして当日の午後九時頃までに完全に伝送せられたのであった。之に依って大阪府知事は当夜深更に非常会議を開いて救護の準備に着手し翌早朝糧食其の他の救護品を満載した汽船を出発せしめたと伝へられたが如くに、各地方に於ける各種救護計画の進捗を著しく速かならしめた』そして、次のような図が掲げられている。
二日早朝からは船橋無線の発信を各地無線が受信して伝介に努めたから東京の情況は各地に一層詳かになった。三日からは横浜及品川に在った船舶が受付けた多数の重要電報を銚子無線が受信して磐城へ送信し、磐城無線から更に大阪無線へ伝送することとなった。この大阪無線へ達する無線系は十月中頃まで震災重要通信の取扱を継続し、其の通過電報数は一千余通に達した。また同日から船橋無線受付重要海外信の多数が磐城へ伝送せられ、磐城は直に米国へ送信した。かくの如く漸次無線通信系は拡大せられ、震災後数日の間に大要前図に示せる如き臨時無線連鎖が形成せられ、最も重要なる通信のみが取扱はれたのである。而してその取扱震災関係電報通数は銚子無線は九月中三千四百通、磐城無線は二千四百通、潮岬無線は七千八百通の多きに達した。
而して東洋一の大電力を擁し本邦唯一の国際無線電信局たる磐城無線が一日の午後七時以来銚子方面の無線通信を傍受して、之を英訳して、午後八時十分に米国と支那とへ情報第一信を送り、尚ほ数日間引続き無線情報及新聞記事を英訳して海外へ詳報した働きは内外に有名であって茲に繰返へすまでもないことである。米国無線会社から五百円を同局に寄せて感謝し来り、又仏国政府から日本政府へ同局の活動に対し深甚なる謝意の伝達方を依頼して来たことは、米村局長の名誉なるのみならず、本邦無線電信界の誇りである。まさに、この危急の時に在って無線電信の効果は絶大であって、社会的機能としての無線通信の評価が否応なしに高まったとしても当然と言えるであろう。また、ここに「これや丸」通信士、川村豊作氏(大正九年十二月短期科卒)の体験談がある。引用して、事件の現場を知ることにしよう。
 「本牧沖に投錨して間もなく伝馬船やボート等を駆って被災者が殺到し、これや丸の船内は忽ち三千人余りの避難民でごったがえした。神奈川県知事、警察部長など首脳部が乗り込んできて急拠「救済本部」をこれや丸に設置し一切の救援指令を発することとなった。関東一帯の陸線はほとんど破壊され、関西方面からの救援を求める途は無線によるより外にはない(短波やラジオは勿論テレビのない時代である)。食糧も水もなくこのままでは餓死に追い込むことになる。なんとしても第一報の救援指令を一刻も早く関西に報じなければならない。しかも無情にも空中は、あたかも蜂の巣をかきまわしたような電波の発射で、大混乱となっていた。神に祈る気持ちで潮岬無線局を連呼したが応答らしいものをキャッチすることができない。幾度か繰り返し連呼したが一向に応答がない。発電機は数時間廻り放しで過熱する恐れがある。時に午後七時過ぎであったろう。当時はこれや丸の送受信機は出力7kWの佐伯式クインチド・スパーク・システムで、受信機は逓信省D型鉱石受信機に、その頃できて間もないソフト真空管検波器を連結したもので、当時としては優秀な装備であった。今日では想像もつかない程昼間の遠距離通信は困難な時代であった。この物凄い混信を止めない限り通信は不能であって、この重大な使命を果すことができないと判断し、すべての通信を中止せよという「オール・ストップ」の符号を連続連打し、超非常体制を独断でとった。その処置がよかったのか、太陽が没すると電波の伝播距離が延びて潮岬無線局の応答が聞えてきた。時に午後8時過ぎ、歴史的第一報「本日正午大地震大火災起り死傷幾万なるやも知れず、食糧水なし至急救援たのむ」打ち終って栃折喜三君と抱き合って感泣した。この第一報が大阪朝日新聞社の号外となって関西に伝わり救援の手を早めたことは勿論間接的に多くの人命を救うことができたのである』
 川村氏は、これ以降四昼夜電鍵を叩き続けるのだが、目黒気質の土壇場での底力とでもいうべきものが氏に電鍵を叩かせたのだろうか。一つの歴史の創成には必ずこのような力持ちがいるものだという証左であろう。さて、現実的に考えてこの震災は無線界にどのような教訓をもたらしたのだろうか。池田周作氏は「電信協会会誌」第二百三十九号に教訓として、「自力に依る電源を設備すること」「混信に対する防禦」「大都市の無線連絡を確保すること」「新聞電報の無料放送を為すこと」の四点を挙げ詳説しているが、核心を衝いた意見であろう。この天変地異はいよいよ無線電信講習所の役割を高めるために寄与したのである。幸いなことに、震災による無線電信講習所の被害は極く軽微なものであった

磐城国際無線電信局富岡受信所(上は当時の写真・福島県相馬郡富岡町)(現在はNHK富岡中継所)
関東大震災直後、惨状を伝える無線をこの富岡受信所が受信し、福島県原ノ町の無線塔(下の写真)を経由しアメリカに発信、第一報はホノルルRCA局経由でサンフランシスコに送られた(実際にはサンフランシスコでも直接受信)
富岡無線電信局長の米村嘉一郎氏(左の写真)は、船舶無線局開設初期から外国航路商船の船舶局長を務めていた人で英語に堪能であった。大阪中央無線局に送られた「横浜港内ニ停泊汽船ノ報ニ曰ク、横浜地震ノタメ全市建物全滅、同時ニ津波起コリ、家屋流失、各所ニ火災起コル通信ノ途ナシ」を受信すると、ただちに英文に翻訳しホノルル無線局宛打電する。「coflagration subsequent to severe earthquake atyokohama at noon today whole city practically ablaze with numberours casualties all trafic stopped」これが富岡受信所からアメリカに届いた関東大震災の第一報となる。それによりアメリカはクーリッジ大統領以下国を挙げて全面的対日支援に乗り出し「1923トモダチ作戦」を実行することになる。そして、送り続けた情報は全世界に届けられ 世界中から支援の手が差し伸べられ,富岡受信所と米村嘉一郎氏は世界から注目され、その果敢で正確な情報を送り続けたことを高く評価された。米村氏の功績は極めた大きかった。
当時の富岡無線電信局の職員たち(左端が米村嘉一郎局長)
★富岡無線電信局と原ノ町無線塔
 大正7 年4 月、福島県富岡町深谷に1 万坪の敷地に中央に高さ75mの木製の柱を立て、これに架渉した水平距離約300m の15 番撚硅銅線で方形に架設された大型ループアンテナを架設、受信機はヘテロダイン検波周波増幅一段の二球式を使用、現在から見るとずいぶん旧式ですが当時としては最新鋭の機器だった。局舎は木造瓦葺き平屋で建坪140 坪、送信室のシールドとして0.5mm の厚亜鉛板で遮蔽し、床は亜鉛版板の上にリノリュームを敷き、窓は銅網を張り、配線溝も送信室から電源室へ向かって約10m遮蔽した。送信室、周波数安定装置室への配線はそこから10m 迄木枠の上に大小被鉛線を格子のように一本一本並べて間隔を置き線の多いところは段にして動かぬように絶縁するなど,接地、振動防止に注意を払っている。シールドとは放射する電磁波を遮蔽するためのもので、無線室と離れたと所に厳重にシールドされた一室に送信機は置かれた。
 電源としては、電源蓄電池が各2 組あり一方使用中は他方を充電する様にした。受電用変圧器は屋外用3500V/200V/100V 単相60∞30KVA3 個現用、1 個予備、配電盤は受電配電、蓄電池、充放電及び水、油、空気ポンプ用の5 面で充電用電導発電機は合計5 基が設置されておりました。高圧の電気を使う送信設備には冷却装置が大切です。真空管は傍熱式、変圧器も熱を持つので空気、冷却水、特殊な油等で冷やします。空気ポンプは圧力型で冷却真空管のガラスと銅の継ぎ目、陽極、格子、繊条を吹き、陽極の水冷には口上のタンクから自然流通によって真空管を冷却し、排水は地下タンクに溜るようにして上部タンクの水量が減ると自動的に水ポンプを運転して、地下タンクから揚水する。飽和変圧器冷却には油を使用し、水冷却装置同様に自動操縦を行ったのです。政府逓信省から派遣された佐伯、中山、吉田の三人の技師が中心となって機械設置工事を担当し中上係長、若松技師、小山技手、寺畑技手以下の無線係員が送信機低周波増幅、周波数安定装置、受信機の調整等の作業に従事,総指揮は稲田工務課長で大正8 年9 月から大正9 年5 月1 日の開所まで8 ヶ月の懸命の努力によって完成する。この間富岡町の亀屋旅館に宿泊しており、その記録が残っている。
一方、原ノ町には国家の悲願だった無線電信局の送信施設として東洋一のアンテナ主塔の建設を計画、国家の総力を挙げてと言っても過言ではない。当時としては最高の人材、我が国において初めて鉄筋建築を研究した人で、応用力学、構造学の権威者、東大教授柴田畦作工学博士が構造設計を担当し、設計は建築学の権威山口孝吉先生が担当した。このお二人の業績は数多く、我が国土木工学の祖と言える先生である。現在のように土木機械があるわけではなく、殆どが人力に頼り、運搬は馬車だったようです。工事は昼夜兼行で行われ、労働力は地元民ばかりではなく、日韓併合後に日本へ流出してきた難民を多数投入したようであった。なにしろ我が国にとっては史上初めての超高層建築であったから、先人の苦労が忍ばれる。櫓を立て、鉄骨・鉄筋を組み、セメントを練り、流し込み、遂に地上高201.1 メートルもある鉄筋コンクリートの巨塔が天高く白雲を貫いて聳え建ったのが大正10 年、その周り八方に鉄塔が建ち、巨塔の先端から鉄塔に傘型に直径800m のアンテナが展張されて、送信機も国産の新鋭が設置され、東洋一の大傘型アンテナとなった。開局が同年7 月1 日。開局式典として逓信大臣、県知事等多数のVIP が出席、騎馬武者行列、野馬追い、その他盛沢山の行事が行われ、ハイライトは原ノ町上空を初めて祝賀飛行の飛行機が飛んだことであった。何故この様な巨塔が必要だったかというと当時の電波として開発されていたのは長波のみで、しかも固有周波数20kHz、波長15,000m,空中線電力400kW という長波で花火式送信機であったから、伝搬は地表波なので発信点は高いほど遠くまで伝搬する原理である。更に波長に合わせて共振させるためには長大なアンテナが必要であった。富岡局は大正9 年5 月1 日開局、原ノ町局は翌大正10 年7 月開局ですから1 年2 ヶ月は船橋無線局が送信業務を連携し二重通信を行っていた。原ノ町無線塔が完成し完全開局となる。電波とは電磁波なので送信波と受信波とが近いと磁場を乱してしまって送受信が巧くいかない。また大電力の送信機ですから放射する電磁波は猛烈で、強い磁場をつくる。事実原ノ町送信所が廃止になってから、この送信機は我が国の原子物理学の祖である仁科芳雄博士の研究所に送られサイクロトロンに改造(強力な磁場をつくって荷電粒子に円形の軌道を描かせ加速する)され研究機材として活用されていたが、戦後進駐軍命令で全ての施設とともにを東京湾に投棄された。
 関東大震災の第一報が発せられたのは横浜港に停泊していた大阪商船の‘ロンドン丸’で銚子無線局(JCS)へ送信したのが12 時30 分、「本日正午、横浜ニオイテ大地震ニ次イデ大火災起コリ、全市ホトンド猛火ノ中ニアリ、死者算ナク、全テノ交通通信途絶シタ」この電報は潮岬海岸局(JSM)経由で陸線で大阪中央電信局に送られている。この地震は富岡でも大揺れで人々は外へ飛び出したようで、瓦が一部落ちたくらいの被害で済んだが、情報は全くなく、富岡無線電信局としては仙台逓信局に問い合わせるがここにも情報はなし、有線が駄目なら無線では出来るはず、ところが富岡局は国際通信局なので国内の電波は受信できないシステムになっており、これを局員一丸となって受信システムを改良して同日夕方には国内電波受信に成功する。 船舶からの目視情報であったから横浜に限定された情報だった。この当時東京湾の特定港(外航船舶が寄港を許された港)は横浜港だけであったから無線電信局を設置した外航船舶は横浜港にしか在泊してなかった。
関東大震災当日、横浜港などで活躍した主な在泊船舶。
大阪商船:ロンドン丸、ばりい丸、湖南丸。
日本郵船:三島丸、丹後丸。
東洋汽船:これや丸。
三井物産:宝永山丸。
川崎汽船:鹿山丸、東華丸等 その他にも数多くの船舶局が参加している。
コレア丸(KOREA MARU)東洋汽船所属 客船・11,276重量トン
1901年3月/進水(1等船客209、3等船客550)
1916年5月/Atlantic Transport.USから東洋汽船が購入
1916年7月/川崎造船所(神戸)で改装工事、北米航路-横濱~サンフランシスコ航路に就航
1923年9月/横浜港碇泊中に関東大震災に遭遇。緊急無線を発信し続ける。
1926年3月/合併に伴い日本郵船に移籍
1934年7月/第一次船舶改善助成施設により売却・解体
 特筆すべきは東洋汽船の‘これや丸’で、翌日米国向け出港する予定で横浜新港埠頭で荷役中の同船は、地震発生により岸壁を離れ、沖合にシフトしてから港湾局、税関、県警、県庁等の仮事務所を船内に設け、ここから情報を打電する宰領局としての活躍が始まる。一方、富岡局は第一報を打電してから、電波伝搬が悪かったのかしばらく沈黙しており、サンフランシスコ局とホノルル局は盛んにQRZ、QRZ、JAA JAA で呼んだ記録が残っております。富岡局の米山局長はサンフランシスコ局、ホノルル局の両方に知人がおり、個人名でも呼んでいる。これは船舶局に勤務していると当時に寄港した時、寄港先の海岸局に挨拶するのが慣例になっており交流があったものと思われる。当時は外国船が横浜、神戸に入港しても無線局は銚子局と長崎局であったから、外国へ電波を飛ばすことは困難であった。しかも世界の半分以上の海岸局はマルコニーで海岸局、船舶局は全てマルコニー職員であったから通用するのは英語のみだった。
 これや丸が宰領局になってからは、情報が入ってくるようになり「本日正午大地震起コリ引キ続キ大火災トナリ全市ホトンド火ノ海ト化シ死傷者幾万ナルヲ知ラズ、交通通信機関、水、食糧ナシ、至急救助乞ウ、神奈川県」「地震ノタメ横浜ノ災害ソノ極ニ達ス、最大ノ救助モトム」等々次々と入電する情報を米村局長が即座に英訳して打電しています。「eathquake yokohama all city a fire many building collapsed loss of lifeheavy thought you would be interested yonemura」最初のうちは横浜港外からの目視情報だったが、段々と東京惨状の速報が入手できるようになり、また大阪や地方紙の号外・新聞が出回るようになって入手した情報は全て米村局長が英訳して対米通信で連絡している。即座に英訳できる語学の達人が富岡の地にたまたま存在したことは奇跡的なことであった。
 ともかく富岡局は全ての情報を昼夜を問わず7 日の間打電し続け、この情報はアメリカ国内だけでなく世界中に配信されている。もう一つの偶然は、中国北京郊外に無線電信局を建設中で、技術者として派遣されていた元磐城無線電信局の局員が試験電波を発射しながら調整をしていたところ米村局長のホノルル局宛の打電を偶然に傍受し、この情報を中国側へ伝えるとともに、更にはヨーロッパへも転送している。電鍵操作は個人の癖があり、馴れると誰が打電しているか直ぐに判るものといわれる。
 アメリカの各新聞は米村局長の縦横無尽の活躍を詳細に報じ、サンフランシスコ局を訪問した際の記念写真を米村局長だけを抜き出して大きく掲載するほであった。さらにはニューヨークタイムスは社説でもって米村局長の活躍を讃え、アメリカ無線会社、新聞協会、フランス無線技術士協会、スペイン無線通信協会から賞金、メダル、感謝状が贈られた。またドイツでは小学校の道徳の教科書の題材になるなど、米村局長の活躍と共に富岡無線電信局の存在を大きく報じており、アジアにも世界最新鋭の国際無線電信局ありと世界中の人々に印象付けたのである。ところが外国でこれだき大きな反響・賞賛があったにもかかわらず我が国では全く無関心・無反応であった。
 大正期末に真空管が改良され、短波通信が可能になった。短波とは電離層反射を応用した電波伝搬ですから遠距離通信が可能になり、短波は逆L 型アンテナを用いるので、長波の為の無線塔は無用の長物になっていく。大正14 年10 月20 日日本無線電信株式会社創立、磐城無線電信局は政府現物出資として同会社へ譲渡され、富岡局は短波通信ができるよう送信アンテナを新たに設置し運用を期したが、残念ながら昭和2 年8 月に磐城無線電信局の廃止が決定、それでも短波無線局として活用しようと設備を投入したのですが、昭和7 年には完全廃局が決まり、機材は全て埼玉県福岡局へ移されて敷地と無線塔だけが取残された。

原ノ町(現南相馬市原の町)の無線塔(当時は東洋一の高さ)

 「1923トモダチ作戦」のサイトにも掲載したが、大日本帝国内務省社会局 発行(1926年2月26日)の「大正震災志」には次のように書かれている。
「通信機関全滅の裡に災害を逸早く報じ得たのは横濱碇泊中のコレア丸であった。その日森岡神奈川縣警察本部長は漸くにして震火の間を潜り抜け、官服の儘身を海中に投じて、遂にコレア丸に到達し、コレア丸の無線電信を以て東京府知事に宛てて『地震の為め横濱の惨害其極に達す。最大の救助を求む』と打電したのであった。然し東京市も惨禍の裡にあったのであるから、固より其返電はなかった。更に大阪方面に向かって救助を求めたるに即刻返電あり、ついで詳細の報告を致したのであった。 コレア丸の無線放送を受信した船橋の無線電信局は強力の電波を以て之を各地に打電した。恰も南支那沿岸に遊弋中の米国亜細亜艦隊は之に感応して、同艦隊司令官は獨断の處置を取り、二百五十萬圓分の救済物資を贖め之を舶載して横濱に急航し、米船スルガ1号は漢口に輸送すべき物貨を積んで金華山沖を航行したるに、同じく此の無線に感じて、直に救助船となり、芝浦に寄港した。
 其他の軍艦商船も此無線に感応したものが多かった。 福島縣 原の町無線電信局は同縣富岡受信局より此通信を受くるや、直に米国に向かって打電した。一日夜、此無線が米国に達すると、翌二日は日曜日なりしにもかかわらず、大統領クーリッジを總裁に戴ける同國赤十字社は時を移さず華盛頓(ワシントン)に於て幹部会を開き、救済金五百萬弗募集の計画を樹立し、大統領は無線電話を以て全米各州に向かって一場の大演説を試みた。此演説は非常の反響を喚起し、同情はごう然として極東の大震災に対して聚まったのである。シカゴ市は十七萬弗を割り当てられたが、之を少しとして、五十萬弗を突破し、ウイスコンシン・イリノイ等中西部十州は三十萬弗の割当に対して百六十萬弗に及んで、全米の義捐金は須臾の間に一千萬弗を超えたのであった。(以下略)」 


1982年に原町ライオンズクラブが建てた十分の一の「憶 原町無線塔」(道の駅・南相馬の近くの公園
「憶 原町無線塔」の説明碑

道の駅に隣接する公園内の花時計(ここが無線塔跡)
花時計の説明版
原町無線塔建設を伝える当時の新聞
無線塔近くの南相馬の海辺に「東日本大震災の犠牲者慰霊柱」
道の駅・南相馬近くの公園には東日本大震災後に仮設住宅が建てられた。その向こうに「憶 原町無線塔」が見える
道の駅の標識と仮設住宅

★ほかにも、関東大震災のちょっといい話
日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。2023年9月1日で関東大震災100周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。
★100年前の「トモダチ作戦」
★町を守り抜いた人々「防火守護之地」

★7万人の避難者の命を守った人々
★被災者に勇気と希望を与えた震災イチョウ
 
★300人の朝鮮人を救った警察署長
2013年夏・山村武彦 関東大震災の概要

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