関東大震災のちょっといい話
90年前の「トモダチ作戦」 町を守り抜いた「防火守護之地」 7万人を救った浅草公園 希望与えた震災イチョウ
 朝鮮人300人を救った警察署長

関東大震災 90周年目の夏・写真レポート/山村武彦
関東大震災の概要 

★関東大震災(大正関東地震)の概要
★発生日時: 1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒
★震央:神奈川県足柄上郡松田町付近
★震源断層:フィリッピン海プレートが相模湾にある海溝(相模トラフ)から関東地方をを載せている陸のプレートの下に潜り込む所で発生した海溝型地震。震源断層は相模湾から東京湾方向へ20度~30度で傾く領域に広がり、その上を関東地方が乗ったブロックが平均して約7mのし上がったと考えられている。すべりは、午前11時58分32秒に白い矢印方向へ松田付近から始まり房総半島南部方向に向かって秒速2.5~3㎞の破壊伝搬速度で広がった。断層すべりに要した時間は30秒~40秒程度とみられている。上盤側の房総半島から三浦半島さらには伊豆半島の付け根にかけて、最大で2m近くも土地が隆起した。一方で丹沢山地を中心に東京湾奥や下盤側の伊豆半島ではやや沈降したところもある。相模湾から伊豆半島にかけて津波が襲来し1000人以上の犠牲者など大きな被害を出したが、東京沿岸では最大1m程度の波高で津波による被害はなかった。
★地震の規模:M7.9
(本震:9月1日11時58分32秒)M7.9
(余震:9月1日12時02分)M73
(余震:9月1日12時03分)M7.2
※約5分間に3回の大地震発生、その後断続的に9月5日午前6時までに約700の余震が続いた。
★死者・行方不明者合計:105,385人
(住宅損壊による犠牲者:11,086人)
(火災による犠牲者:91,781人)
(流失・埋没による犠牲者:1,013人)
(工場などでの犠牲者:1,505人)
★被災者数:約190万人
★焼失家屋:212,353棟
★全半壊家屋:159,005棟
★流失・埋没家屋:1,301棟
★地震直後出火件数:136件
★津波:相模湾沿岸及び房総半島に最大6~12mの波高
★物的損失:45億円(日銀推計)(当時のGDP150億円)
★昭和恐慌の遠因:
 GDP1/3の損失を受け、、政府は、財政面から、復旧・復興経費の予算計上、租税の減免や徴収猶予、財源調達のための国債・外債の発行、大蔵省預金部の資金を活用した公的金融の拡充等の対応を行った。ただし、当時の復旧・復興事業については、基本的には緊縮財政路線を堅持しつつ行われたという点が特徴的である。一方、金融面では、被災企業が振り出した手形(震災手形)の日銀による再割引等の対応がなされた。しかし、これらの政策的対応には、経営不振企業やそこに融資していた銀行の整理を先送りするとともに、旧平価による金本位制復帰に向けた環境を整えたという点で、その後の金融恐慌、昭和恐慌、軍部台頭への道を開くことになる
 大正12(1923)年9 月下旬に震災からの復興のために帝都復興院が設けられたが、その総裁に任命された後藤新平は、同年11 月に予算規模40 億円の「帝都復興計画」(東京・横浜を対象とした都市計画)を打ち出した。財政緊縮路線下では後藤の提案はそのままの形では受け入れられず、同年末に発表された同計画に関する経費の予算規模は、政府案の段階で約6 億円に縮減された。この約6 億円は、大正12(1923)年度以降6 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1,500 万円が、大正12(1923)年度の追加予算に計上された。6年間にわたる継続費の総額は、国会で与野党が対立するなかで4.7 億円に減額修正されたものの、その後の更なる追加予算で1 億円強が増額されたことから、最終的には政府案とほぼ同額の予算規模(6億円)が確保された。この帝都復興を主眼とした経費のほかにも、各省の営造物等の復旧に必要な経費(総額約7.1 億円)が、大正13(1924)年度以降10 年間の継続費として扱われ、総額のうち初年度分の年割額である約1.2 億円が、大正13(1924)年度の追加予算に計上された。震災復興に関連した経費が巨額に上ったことから、我が国の財政状況は急速に悪化していく。政府は、復興対策のための財源不足分は国債(「震災善後公債」10)で賄うことにした上で、新規の国債発行は震災対策関係のみに限定するとともに、一般会計における既定の国債発行計画を当分中止するとの方針を示した。
 「震災善後公債」については、帝都復興対策の予算(当初は、大正12(1923)年度以降の6 年間にわたる継続費として総額で約4.7 億円とされ、それに見合った金額として約4.7 億円の発行が法定された。そして、新規国債の発行が増加した結果、震災発生直前の大正11(1922)年度に約1.1 億円であった国債費は、大正13(1924)年度にはその2 倍近くの約1.9 億円にまで膨らむこととなった。加えて、政府は約5.5 億円の外債(「震災外債」)を発行した。その背景には、被災地の復興を進めるために外国資材の輸入が必要であったものの、当時は我が国が保有する正貨(金本位制の裏付けとなる金貨や金地金等の資産)が減少傾向に陥っていたことから、政府が国外から新たな借入れを行わなければならないという事情があった。ただし、国内産業の被災状況が深刻さを極めるなか、この外債の発行条件は我が国にとって不利なものとなり、その利回りは8%と、日露戦争当時に日本が発行した外債の利回り(5%強~6%)を上回った。このため、当時発行された外債は「国辱公債」であるとの批判を受けた。

下記データは武村雅之氏著「未曾有の大災害と地震学-関東大震災」より引用
 府県   住家被害棟数(棟)     死者数 (名)(行方不明者数を含む) 
   全半壊  焼失 流失・埋没   合計 住家全壊  火災  流失・埋没  工場等 合計 
神奈川県 89,668  35,412  497  125,577  5,796  25,201  836  1,006  32,838 
東京府  29,073 176,505  205,580  3,546  66,521  314  70,387 
千葉県 19,474  431  71  19,976  1,255  59  32  1,346 
埼玉県  8,845  8,845  315  28  343 
 山梨県 2,802  2,802  20  22 
 静岡県 8,523   731  9,259  150  171  123  444 
 茨城県 483  483 
 長野県 88  88 
 栃木県 0 0
 群馬県 45  45 
 合計 159,005  212,353  1,301  372,659  11,086  91,781  1,013  1,505  105,387 

災害史上最悪の犠牲者を出した背景には、複数の悪条件が重なっていたことがあげられる。
1、地震発生時刻:午前11時58分という昼食の支度をしている最中(火を使っていた)で、136カ所から同時出火したこと。
2、気象状況:台風が通過し能登半島付近を北上中で、吹き返しの強風が吹き出火した火災が短時間に延焼拡大していったこと。
3、広域大規模地震:建物倒壊による被害が10府県にまたがる広域の大規模地震であって、倒壊家屋から出火し延焼しやすかったこと
4、消防設備:地震の揺れで消火栓(消防水利)が使用不能、消防ポンプ車は東京府で38台しかなかった消防設備の未整備だったこと
5、木造密集地域:東京府下町の人口密度は極めて高く、木造密集地域が多かったこと
6、情報伝達手段:当時電話は一般家庭に普及しておらず、テレビはもちろんラジオ放送も実用化されていなかった。通常の情報取得手段は電報と新聞が主なものであった。しかし、東京にあった新聞社は地震発生により活字ケースなどが倒壊し印刷機能を失っていた。さらに広範囲な火災により東京日日新聞、報知新聞、都新聞を除く新聞社13社は焼失してしまっていた。最も早く復旧した東京日日新聞が夕刊を発行するのは9月5日で、発災後4日かかっている。報道機能を失っただけでなく、通信、交通手段も断絶していたため、正しい情報を伝えることができず、根も葉もないデマ、風評、流言飛語が飛び交い、混乱を招き、無実の朝鮮人等を多数殺戮してしまうなど痛ましく取り返しのつかない事件を誘発していく。「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波、赤城山山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などと、被災地以外の新聞が憶測や伝聞に基づいた記事で混乱をさらに助長させた。こうしたデマなどに基づく情報の中には「朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、放火して回っている」というものまであり、情報の無い民衆を不安に陥れるだけでなく、虐殺を招く要因ともなった。
7、指揮命令:加藤友三郎内閣総理大臣は、震災の8日前(8月24日)に病気で急逝していた。そのため、大震災発生時は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行していた。そのため、指揮命令、情報伝達等が適切でなく震災翌日(2日)に戒厳令が発令されるが、それまで適切な情報や対策を打ち出すことができず、結果としてデマや風評に惑わされた自警団等の暴走、罪なき朝鮮人殺戮を防ぐことはできなかった。

★関東大震災のちょっといい話
① 90年前の「トモダチ作戦」
② 
町を守り抜いた「防火守護の地」
 浅草公園/7万人を救った人々
 被災者に勇気と希望を与えた震災イチョウ
 日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。2013年9月1日で関東大震災90周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。調査を進めれば進めるほど、奇跡的なことの背景には、ある共通の法則が隠されていると思うようになった。それは「奇跡は一夜にして起こらず、適切な準備・覚悟・行動があってこそ奇跡が起きる」である。
 山村武彦

国道1号線酒匂川橋落橋(神奈川県小田原市)

 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
東海道線馬入川鉄橋(神奈川県平塚市~茅ケ崎市)

炎上する横浜方面
 横浜正金銀行(現神奈川県立近代博物館)

横浜駅
横浜市山下町付近(この瓦礫を埋め立ててできたのが現在の山下公園)
中央気象台の時計が止まった(地震発生の11時58分)
東京・日本電気三田工場
 銀座四丁目
浅草方面(奥の建物は浅草十二階)
隅田川(向こうに見えるのが国技館といわれる)
本所被服廠跡(ここだけで約38000人が死亡)
被服廠跡で亡くなった約38000人分と集められた犠牲者のお骨合計約40000人分
被服廠跡に建てられた震災記念堂

上野駅前広場に避難した人々 
上野公園にはピーク時約50万人もの避難者が押し寄せ、トイレ対策も間に合わず衛生状態が悪化
埼玉・千葉などの農家に汚物を肥料として引き取りを要請するも費用が折り合わず
東京湾沖合まで船を出し廃棄せざるを得なかった
10月に入って赤痢・チフスなどの伝染病が発生した
 焼け落ちた万世橋駅(駅舎は一時遺体置き場になった)

 
 アメリカは大震災の報道が伝わると同時に日本救済のために全米で義捐金募集運動が行われた
日本人移民への排斥運動が激化していたが、当時のクーリッジ大統領の命により
アメリカ赤十字社に「日本救済事務所本部」が設置された
1早ければ1人多く助かる(Minutes Make Lives)」が募金運動の合い言だった
集められた日本救済募金は約5000万ドルを超えた
さらに米国救済団は、麻布の高松宮邸(現港区)にテント病院を建てて、負傷者の救護にあたった


 
  アメリカや中国から救助隊や救護隊が駆けつけた

関東大震災のちょっといい話
90年前の「トモダチ作戦」 町を守り抜いた「防火守護之地」 7万人を救った浅草公園 希望与えた震災イチョウ
 朝鮮人300人を救った警察署長


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