関東大震災のちょっといい話
★町を守り抜いた人々  ★希望を与えた震災イチョウ
 ★7万人の命を救った浅草公園 ★90年前の「トモダチ作戦」

関東大震災 90周年目の夏・写真レポート/山村武彦
関東大震災のちょっといい話/朝鮮人300人の命を守り抜いた警察署長
横浜市鶴見区潮田町(うしおだまち)・東漸寺(とうぜんじ)
本堂入口右脇にその石碑があった
故大川常吉氏之碑
碑の高さ113cm×幅64cmの自然石に楷書縦書きの文章が刻まれている
碑文
故大川常吉氏之碑
関東大震災当時流言蜚語により激高した一部
暴民が鶴見に住む朝鮮人を虐殺しようとする
危機に際し当時の鶴見警察署長故大川常吉は
死を賭してその非を強く戒め三百余名の生命
を救護した事は誠に美徳である故私たちはここに
故人の冥福を祈りその徳を永久に讚揚する
一九五三年三月二十一日
在日朝鮮統一民主戦線
鶴見委員会

大川常吉氏の研究をされていて東漸寺(とうぜんじ)近くに住む「鶴見歴史の会」の林 正巳氏(85歳)にお話を伺った。そのときいただいた資料や内務省の震災誌等から石碑のいわれをたどる。
「この石碑は関東大震災から30年目に建てられたものです。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は、10万人以上の死者・行方不明者を出したが、もう一つの悲劇はデマににより引き起こされた朝鮮人虐殺事件であった。このデマは『朝鮮人が婦女を犯し、井戸に毒物を投入した』などというもので、このため、日本刀や竹槍、猟銃などで武装した自警団が、関東一円で三千七百もつくられ、朝鮮人を襲ったという。『警察史』から抜粋すると、『二日夕、自警団員が四人の男を朝鮮人だと鶴見署に突出し、「持っている瓶に毒が入っている。たたき殺せ」と騒いだ。当時、46歳の大川署長は「そんなら諸君の前で飲んで見せよう」瓶の中身を飲み、暴徒を納得させた。翌日、状況はさらに緊迫。大川署長は多数の朝鮮人らを鶴見署に保護する。群集約千人が署を包囲し、「朝鮮人を殺せ」と激高。大川署長は「朝鮮人たちに手を下すなら下してみよ、憚りながら大川常吉が引き受ける、この大川から先に片付けた上にしろ、われわれ署員の腕の続く限りは、一人だって君たちの手に渡さない!」と一喝。体を張っての説得に群集の興奮もようやく収まったかに見えた。しかし、それでも収まらない群集の中から代表者数名が大川に言った「もし、警察が管理できずに朝鮮人が逃げた場合、どう責任をとるのか」と。すると大川は「その場合は切腹して詫びる」と答えた。そこまで言うならととうとう群衆は去って行った。保護された人は朝鮮人220人・中国人70人ら、計300余人に上る。保護された朝鮮人・中国人は合わせて301名に増え、9月9日鶴見警察署から横浜港に停泊中の崋山丸に身柄を移しその後海軍が引き受けて保護した。保護された朝鮮人のうち225名はその後も大川署長の恩に報いるべく震災復興に従事したという。大川常吉氏は1940年(昭和15年)死去。墓地は東漸寺にある。死後13年目の1953年、関東大震災30周年を機に上記石碑が建立され大川常吉氏の遺徳を刻んだ。
 大川常吉氏は後年「警察官は人を守るのが仕事、当然の職務を遂行しただけ」と語ったと伝えられているが、あの当時、あの状況下で、多数の暴民に取り囲まれながら、しかも 署員はわずか30名で多数の朝鮮人らを守り抜いたのは並大抵の胆力と度量ではなかった。「覚悟を決め・死を賭して」の大川常吉氏の行動こそ日本人としての誇りでありヒューマニズムの原点である。

関東大震災の翌年、鶴見潮田町両町在住鮮人一同から次のような感謝状が送られている
感謝状(本文)
維時大正十二年九月一日 関東地方に大震火災襲来した時
我等鮮人に対して 多数市民は不逞行為があったと曲解し 穏やかならざる形勢があった
此時に際して 大川鶴見警察署長は泰然自若として奮発挺身して
克く鶴見潮田両町在住の鮮人三百余名の生命を完全に救護した
我等一同安泰の今日が在るのはすべて署長殿の鴻恩にほかならない
茲に我等一同は歓喜の余り報恩記念品を贈呈し感謝の微意を表す

現在では蔑称・差別用語とされる朝鮮人を表す「鮮人」という言葉を自ら使っているのは
差別用語を自ら使わざるを得ない時代であり、社会状況だったとされる
現在の鶴見警察署/2013年8月撮影
炎上する警視庁(1923年9月1日)
関東大震災と警察
 戦前の警察は内務省の一部局として組織され、内務省警保局が各府県の警察を統轄した。府県知事の下には警察部長を擁する警察部が置かれ、以下、警察署・警察分署―巡査派出所・巡査駐在所などを置いて管下の警察行政を管掌した。また、東京府には警視庁が置かれ、警視総監を長官として各部局を置いて府下の治安を担当していた。
 当時の警察は狭義の秩序維持にとどまらず、衛生、消防など「行政警察」と称される幅広い事務を管掌し、様々な側面から被災地での救護活動に関与した。なお、犯罪捜査を主な内容とする「司法警察」は、原則として各裁判所検事局が指揮権を有していた。災害や騒擾などの非常急変に際して、警察のみでは対応が困難な場合、各府県知事(東京では警視総監)は陸軍師団長及び衛戍司令官に出兵を請求できた。さらに、戦争事変の際には戒厳令が施行された。日比谷焼打事件(1905(明治38)年)では東京で戒厳令が施行され、米騒動(1918(大正7)年)の際には地方長官の請求に基づいて全国各地で軍隊が出動している。
 東京は関東大震災以前に、吉原大火(1911(明治44)年)、神田大火(1913(大正2)年)、新宿大火・浅草大火(1921(大正10)年)、明治43年水害(1910(明治43)年)、大正3年水害(1914(大正3)年)、大正6年水害(1917(大正6)年)などの大規模火災・災害を経験しており、警察はその都度消防・治安・救護活動を担った。大正6年水害の際には、警視庁令(警視庁が制定する行政命令)による暴利取締が実施されている。
 関東大震災が発生した1923(大正12)年当時、東京には警視庁本庁に加え、市部に警察署40、巡査派出所429、巡査駐在所2、郡部に警察署・警察分署23、巡査派出所129、巡査部長派出所17、巡査駐在所282が置かれていた。震災当時の警察官総数は、警視48人、警部65人、警部補以下9,477人(本庁と島嶼を除く)であり、定員(市部は人口300〜800人、郡部は人口600〜2,000人に1人)に基づいて市部に約7,000人、郡部に約2,000人の巡査が配置された。
 神奈川県では、警察部以下、警察署20、警察分署7が配置され、1921(大正10)年末には巡査派出所84、巡査駐在所275のほか、警部補派出所、警部補出張所、巡査部長派出所が若干数置かれた(1923(大正12)年末には巡査派出所123、巡査駐在所272)。横浜市では、2消防署が市内の消防を管轄した。職員総数は1921(大正10)年末の1,957人から、1923年末までに2,479人に増員された(神奈川県,1921,1923)。震災当時の巡査定員1,665人だった(西坂勝人,1926)。
 埼玉県では、警察部以下、警察署12、警察分署15が配置され、1923年の警察職員は937人(部長・高等官4、警部・警部補67、巡査866)だった(埼玉県,1923)。県内に特設消防署はなく、各署の監督下に消防組が組織された。
 千葉県では、1922(大正11)年末時点で警察署14、警察分署15、巡査駐在所374を置き、職員は866人であった(千葉県知事官房,1922)。埼玉県と同じく、各警察署・警察分署の下に消防組が組織された。
 関東大震災発生時、内務省警保局長は後藤文夫であった。震災は加藤友三郎内閣から第二次山本権兵衛内閣への移行期と重なり、警保局長は政権と運命をともにするのが慣例であったことから、後藤もいったんは辞表を提出した(後藤文夫,「日本警察の歩みを語る(四)」,1975)。だが、後任人事は難航し、後藤は震災への対処を理由に留任することを決した。震災直後、後藤局長は参内して摂政宮に奉伺し、警保局課員は下町方面の災害状況の調査に赴いた。市内を調査した警保局課員は内務省官舎で協議し、物資調達のための「臨時徴発令」案と、各省を統一する「臨時震災救護事務局」官制案を作成した。後藤局長も山梨半造陸軍大臣に出兵の準備を要請している(後藤文夫,1975)
戒厳令
 9月1日の緊急閣議には、後藤局長と大塚惟精警保局警務課長が出席して震災の状況を報告し、「臨時震災救護事務局」官制案を提起した(後藤文夫,1975)。枢密院会議の開催が困難なことから反対する閣僚もいたが、閣議に招聘された枢密顧問官の伊東巳代治は内閣の責任による実現を提言した(東京市政調査会,1930)。後藤によれば、同日夜には火災の被害が予想以上に甚大なことが判明し、計画を立て直して「物資の欠乏に対する不安を除く処置、各方面行政機関の連絡統一」を図る必要を再認識したという(『自警』,1923)。警保局は収集した情報に基づいて震災初動の対策を立案し、翌2日の臨時震災救護事務局の発足へとつなげた。
 また、9月1日午後2時ごろ、赤池濃警視総監は、水野錬太郎内務大臣と後藤局長に戒厳令の施行を進言した。後藤も震災の惨状から「尋常一様の警備を以て依つて生ずる人心の不安を沈静し秩序の保持を為す事の困難なる」ことを看取し、戒厳令施行を決意したという(『自警』,1923)。かたや、内閣は1日午後7時時点では、枢密顧問官の招集が困難なことから戒厳令を見合わせ、軍隊の出動による臨機的処置を方針とした様子である。(「倉富勇三郎日記」)2007)。 翌2日、水野は「市民の恐怖動揺」を看取し(水野錬太郎,1930)、また、2日朝に「朝鮮人攻め来る」との流言蜚語に触れて戒厳令施行を決定したという(東京市政調査会,1930)。警察の無力化と火災を理由に戒厳令の速やかな施行を志向した警察当局に対し、水野を含む内閣は2日になって施行を決断したと考えられる。翌9月2日、非常徴発令が発令され、内閣に臨時震災救護事務局(以下、事務局)が設置された。事務局は総裁に首相、副総裁に内相を任命し、警保局長、警視総監も参与として列した。
 同日午前の事務局第一回打ち合わせでは、「治安ノ保持ニ付テハ陸海軍警察協力シ之ニ当ルコト」、「米穀其他重要ナル物資ノ市場ニ於ケル暴利ヲ取締ルコト」、「政府発行ノ新聞ヲ発行シ事実ノ真相ヲ伝へ人心ノ動揺ヲ防グコト」などが決定された(東京市役所,『東京震災録』前輯,1926)。同日午後には戒厳令が発令された。また、事務局は各機関の統一を期すため、後藤局長をはじめ治安担当者を委員とする警備部を設置した。9月3日午前9時の警備部第一回打ち合わせは以下の件を協議した。
第一、皇城、赤坂離宮其他宮邸の警衛並に重要官公衙の警衛に関する件
第二、各避難地の保護取締に関する件
第三、市街及一般民衆の保護取締に関する件
第四、一般朝鮮人の保護に関する件
第五、要視察人の取締に関する件
第六、民衆自衛団の統制に関する件
第七、出版物及印刷所の取締に関する件
第八、警備に関する通信連絡の整備、殊に電話の速成を計るの件
第九、交通整理及交通路の設備に関する件
第十、宣伝の取締並に宣伝の実行に関する件
第十一、一般救護事務の援助に関する件
第十二、連絡船の航行に関する件
第十三、鉄道に依る旅客の取扱に関する件
第十四、東京又は横浜に来らんとする者の阻止方法に関する件
(姜徳相・琴秉洞,1963。第一〜十は「関東地方震災救護一件」でも確認される。)
 以後、警備部は毎日午前に打ち合わせを行い、警備方針を決定した。この間の9月2日、警保局は被災地の警察力充実を図るため、群馬・栃木・茨城・千葉など諸県に警察官の派遣を命じ、以後も各府県に応援を要請して被災地に順次派遣した。さらに、同3日、後藤局長は震災に乗じた宣伝運動を警戒して各種要視察人の入京を阻止するよう地方長官に指示し、被災地の要視察人は必要に応じて検束・監視を行い、宮城の警衛を理由に上京を計画した水平社に対しては上京を止めている(『東京震災録』前輯,1926)。同じく3日には、通信・交通機関が復旧するまで出版物の禁止差押処分を地方長官に委任し、出版物の納本も各府県で管理するよう指示した(「記事取締に関する書類綴」,松尾章一監修,1997)。
 また、警保局は被災地の外国人の保護を指示し、府下の中国人については中国公使館跡他数箇所にバラックを建設した。神奈川県では、横浜市を中心に在留中国人、欧米人を停泊中の船舶や救護施設に避難させ、外事課と警察署を動員して巡察を実施している。その後、自警団による朝鮮人に対する殺害・暴行が明らかになると、事務局は9月9日に司法事務委員会を設置し、後藤局長も出席して事件の捜査検挙について協議を行った。震災発生から6週間後の10月12日、後藤文夫は警保局長を辞任した(後任に岡田忠彦)。なお、関東大震災の発生に鑑みて、内務省は9月12日に警察共済組合規則を改正し、警察官吏への災害給与金額を引き上げている。
警視庁
関東大震災の発生当時、警視総監は9月5日まで赤池濃が留任し、幹部は正力松太郎官房主事、馬場一衛警務部長、笹井幸一郎保安部長、小栗一雄衛生部長、木下信刑事部長、緒方惟一郎消防部長の陣容であった(警視庁,1925)。震災によって警視庁も例外なく被害を受けた。本庁と25警察署、254巡査派出所・駐在所が全焼、8巡査派出所が半焼、16巡査派出所・駐在所が全壊、5警察署と25巡査派出所・駐在所が半壊、26警察署と51巡査派出所・駐在所が破損に及んだ。震災直後、各警察署は署員を非常招集して救護事務にあたらせたが、本庁では職員の大半が家族を案じて帰宅し、少数の職員が防火と書類の退避に努めたものの1日午後に焼失した。
 本庁が機能不全に陥る中、赤池は9月1日午後4時半、衛戍司令官の森岡守成近衛師団長に出兵を要求した(森岡不在のため石光真臣第一師団長が代行)。もっとも、警視庁は正式請求に先立って師団司令部と打ち合わせを行い(警視庁,1925)、赤池も後に「衛戍総督」(1919(大正8)年廃止)に出兵を要求したと回顧するなど(『自警』,1923)、出兵の手続は周知されていなかった模様である。また、赤池は同日午後2時、戒厳令施行を水野と後藤局長に進言している。火災の拡大を目の当たりにした赤池は、「此際は警察のみならず国家の全力を挙て治安を維持し応急の処理を為さゞるべからざる」との心境に至ったという(同上)。
 同1日夕刻、警視庁は府立第一中学校に拠点を移すと、赤池を司令長として臨時警戒本部を組織し、総務部以下警戒班、偵察班、特別諜報班、給与班、救護班、消防班を設けて非常任務にあたった。以後、警視庁は府下の警戒に努めるとともに、避難民の保護、消防活動、人心の安定、犯罪の取締、衛生・保健事務を実施した(各種活動については後述)。また、警視庁は震災直後から各警察署に管内の災害状況を報告させ、関係機関に速報している。
翌9月2日の戒厳令施行に伴い、警視総監、地方長官、警察官吏は本来の警察事務を管掌するとともに、軍事に関する事務に限り戒厳司令官の指揮下に入った。翌3日の関東戒厳司令官命令により、警視総監らは戒厳司令官の指揮を受けて、(1)「時勢に害あり」と認められる集会、新聞紙、雑誌、広告の停止、(2)兵器、弾薬その他危険性のある物品の検査・押収、(3)出入船舶・物品の検査、(4)検問所の設置、「時勢に妨害あり」と認められる者の出入禁止。水陸通路の停止、(5)家屋、建造物、船舶への立入検察、(6)戒厳令施行地域内に寄宿する者に対する地境外への退去命令を執行した。また、郵便局長・電信局長は、「時勢に妨害あり」と認められる郵便・電信の開緘を行った。戒厳令に基づく警察の主な執行事務として、検問所の設置、自警団など民間人の武器・兇器の押収が挙げられる。
 9月5日、赤池に代わって湯浅倉平が警視総監に任命された。同日には山本内閣の告諭が発せられ、府下は安定の兆しを見せた。後述するように、同日以降、警視庁は自警団に対する統制を強め、漸次解散の方針を示すこととなる。また同7日、警視庁は警務部長を司令長として各警察署員を動員し、警戒部隊を編成した。警戒部隊は警務部長を司令長として、各部内の警戒を担当する受持中隊と特定区域の警戒を担当する遊動中隊を置き、各隊はさらに検問隊と巡察隊を組織して事務にあたらしめた。民心の安定に伴い、戒厳司令部は同13日以降、検問・巡察の人員を減らし、軍隊を漸次縮小して警察を警備の主体とする方針をとった。同30日をもって検問所の兵員は全廃された。
 9月3日以降、被災地には各地から応援警察官が派遣されたが、警察力の充実は依然として課題であった。同12日には警視庁に警視5人、警部20人が臨時増員され、うち警視3人を監察官に任じた。さらに同20日、湯浅総監は国庫補助による警部補・巡査2,000人の増員を内務省に上申し、10月15日に政府の承認を得た。同20日の警察官増員に伴い、警視庁は新たに8警察分署を増設している。また、10月20日の服制改正により、警察官吏の拳銃携帯が許可された。なお、警視庁は9月16日段階では、戒厳令撤廃後も派出所での検問を廃止しつつ検問所を存置することを検討していたが(「大正12年 公文備考 災害附属 巻1」所収,「戒厳撤廃ニ処スル警視庁ノ方針」〈請求記号:−公文備考−T12〜158〉)、10月30日には派出所と併置された検問所を撤廃し、要警戒区域に限って臨時立番所を設置している。戒厳令は11月15日に廃止され、戒厳令に基づく事務は全廃された。
神奈川縣警察
 神奈川県では、横浜市を中心に壊滅的な被害を受けた。警察部は横浜公園内に救護本部を設置し、横浜市内の各警察署に非常召集をかけるとともに、消防署に出動を命じた。しかし、横浜市内の4警察署は倒壊し、消防署もポンプの圧壊と水道管の破裂によって防火能力を減衰させていた。横浜公園に設けられた臨時救護所も、救護材料の欠乏により充分な活動を行えなかった。警察力は期待されず、安河内麻吉知事は2日、出兵請求を決定した。
 救助を指揮していた森岡二朗警察部長は、9月1日午後2時30分ごろ、救護本部からいったん神奈川県庁に赴いた後、火を逃れて横浜港に避難し、汽船コレヤ丸に救助されると同船の無電で震災状況を各所に発した。翌2日、神奈川県警務課長と高等課長は内務省に到達して横浜の状況報告と救援要請を行い、第一師団に出兵を要求した。同3日、知事の要求に応じて第一師団が神奈川県に派遣され、同日に戒厳令が施行されている。同12日には神奈川県警察部に警視2人、警部8人が臨時増員され、うち警視1名を監察官に任じた(神奈川県警察部,1926)。さらに、10月15日、警部4人、警部補15人と主に他県からの出向巡査を充当して巡査285人が増員された(西坂勝人,1926)。
埼玉縣警察
 埼玉県では、震災による被害は北足立郡・南埼玉郡を中心に死者217人、負傷者517人、家屋の全壊8,073戸に及んだ。同県には京浜方面からの避難民が通過・逗留し、また、各地からの救援隊や救護物資が到来したため、警察は主として避難民保護に対応した。9月1日、友部泉蔵警察部長は非常招集をかけて県下被災地の警戒・救護を指示し、電話の不通により指示が徹底しない中で各署長は管内の警備を指揮した。また、県庁では堀内秀太郎知事が職員の帰宅を差し止めて対策を協議した。同日午後5時、警保局から、天皇への奏上方を栃木県知事に通報する旨の電話連絡を受け、警察部は職員を栃木県に派遣している。
 翌2日、県は千住方面と板橋方面からの避難民を対象として川口町・蕨町に救護所を設置し、警察官をはじめ県職員や医師を派遣して救護にあたらせた。その後、避難民の北上に伴い警察力も県北部に集中したが、同3日には群馬県へ護送中の朝鮮人が熊谷署・本庄署管内で群衆に殺害される事件も発生している。同4日、埼玉・千葉両県に戒厳令が施行され、人心は漸次安定に向った(埼玉県警察本部,1974)。
千葉縣警察
 千葉県では、県南部の安房郡で甚大な被害が発生した。警察の被害は全壊が警察署1、巡査派出所12、半壊が警察分署1、警部補派出所1、巡査派出所10、大破が警察分署1、巡査派出所10、小破が警察署1、警察分署1であった。9月1日夕刻には東京からの避難民が到来する中、警察部は情報収集に努め、衛生課から市川・船橋・津田沼・稲毛の各停車場に救護班を派遣した。その後も避難民は増加したため、各警察署は管内の避難民の調査を実施している。
 また、通信機関が途絶したことから、1日午後8時、警察官を特使として内務省へ派遣し、同16日までに派遣回数は20回に達した(千葉県警察本部,1981)。9月2日午前2時、神奈川県からの第一報が入ると、保安課は仮事務所を設置して震災被害状況の調査に努め、衛生課も県庁裏公園に臨時救護所を設置した。同日午後1時半、安房郡役所と北条警察署の急使によって安房郡の被害状況が伝えられると、齋藤守圀知事は県内被災地の警備と救護の体制を整えた。警察部は医師会と諮って救護班の組織を警察署長に命じ、救護班を県内被災地と東京に派遣した。同日には警保局から応援要請を受け、翌3日に被害の少ない署を指定して応援部隊約100人を東京に派遣している。同4日には千葉県に戒厳令が施行され、県内22か所に検問所が設置された。
関東大震災当時・警察の情報システム
 当時の各行政機関の情報伝達は、主として有線電信、無線電信、電話で行われていた。警視庁は1917(大正6)年、消防部と各消防署に火災報知専用の電話を設置し、1919(大正8)年、全警察署に電信機を設置した。また、1921(大正10)年以降は非常報知機に代えて警察電話を用いるようになり(『警視庁史 大正篇』,1960)、1922(大正11)年末時点で警視庁は電話機1,393台、電信機69台を管下に設置していた(『警視庁統計書』,1922)。
こうした情報伝達網は、関東大震災によってほぼ壊滅した。警保局は主要駅と中央通信所の被害状況を確認して通信手段の確保に努め、東京近辺で唯一機能を維持していた船橋海軍送信所に無電を依頼するほか、各地に事務官を派遣し、あるいは陸軍の飛行便に委託して通牒を発した。警視庁は当初、警察署に適宜特使を派遣して指示したが、9月3日になって警務部通信隊を編成し、2時間ごとに各署を巡回させて指示を伝達した(警視庁,1925)。この他の各警察機関も相互に職員を派遣して連絡を行った。
 被災地以外の府県では、9月1日午後には地震発生の報が届きはじめ、同日夜から翌2日未明にかけて、森岡二朗神奈川県警察部長からの無電で震災の状況が伝えられた。大阪府では、9月1日深夜、八尾警察署が和歌山県潮岬受電所を通じて横浜からの第一報を受信した。翌2日午後2時には陸軍の飛行便が大阪に到着し、内務次官・社会局長官の通牒を受理した。同3日に潮岬電信所の施設が破損したため、大阪府は無線を搭載した駆逐艦の派遣を呉鎮守府に要請したが承諾を得られず、東京宛の発信を呉・佐世保鎮守府経由で転電し、また陸軍第4師団の了解を得て同師団航空隊の飛行便を利用した。同4日以降は大阪港内停泊中の艦船の無電を併用している。大阪府は近畿一円における京浜―関西間の連絡を担い、同7日、事務局から関西地方の伝達庁に指定された(『東京震災録』後輯,1926)。しかし、震災に関する流言蜚語の飛び交う中、誤った情報も伝達された。9月3日午前8時ごろ、船橋海軍送信所から呉鎮守府経由で「東京附近ノ震災ヲ利用シ朝鮮人ハ各地ニ放火シ不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニ於テ爆弾ヲ所持シ石油ヲ注キテ放火スルモノアリ」との後藤文夫警保局長名の通牒が地方長官に発せられ(「大正12年 公文備考 変災災害三 巻百五十五 震災関係三」,琴秉洞,1991)、各地の混乱を煽った。
 このように、通信の断絶は流言蜚語を許し、警察の活動にも支障をきたしたため、政府は通信機関の復旧を焦眉の課題とした。9月1日には早くも塚本清治社会局長官が大阪府に警察電話用被覆銅線20マイルの送付を要請し(『東京震災録』後輯,1926)、さらに同3日、事務局警備部は「警備ニ関スル通信連絡ノ整備殊ニ電話ノ速成ヲ計ルノ件」を決定して電線会社、商社から資材を調達した。同じく3日には埼玉県庁―板橋警察署、千葉県庁―小松川警察署間の通話が回復している。警視庁管下では山の手方面から各署に臨時電話を架設し、同9日に全管内の工事を完了した。また、同14日午前には警視庁―神奈川間の直通電話が回復し、10月10日には丸ノ内−山の手−八王子方面の単独回線が完成した。一方、電報通信は9月6日午後に東京地方の一部で回復し、同9日に東京―大阪間が復旧している。
 しかし、電話・電信が回復するまでの間、情報伝達は当然ながら時間を要した。また、無電についても設備不良や事故が発生し、中央と地方の間で齟齬を生じた。さらに、通信機関が回復した後も、一部の府県で通牒が発信されない事態が発生している。なお、被災地では情報伝達の失策によって、被害を看過した事例もあった。3万8,000人以上の犠牲者を出した被服廠跡を所轄とする本所相生署は、9月2日午前7時、管内の全部焼失と署長の殉職、避難民2万人の存在を警視庁警戒本部に報告した。しかし、同日午後0時12分の相生署報告は被服廠跡での焼死者数を1,000人と見積もり、実際の被害とは乖離していた。被服廠跡では同日夜に陸軍千葉衛戍病院救護班、翌3日に第一師団、同4日に近衛師団がそれぞれ救護にあたったものの、警戒本部は同地への偵察を行い得ず、被害を把握したのは4日のことだった。情報伝達が不正確であり、陸軍との情報の共有も不十分だったことが、警察の救護を遅らせたと推測される(「警察報告 冊の十三」,鈴木淳,2004)。
 
流言蜚語
 流言蜚語により迫害対象となった朝鮮人について、9月2日、警視総監の赤池濃は「朝鮮人ヲ速カニ各署又ハ適当ナル場所ニ収容シ其身体ヲ保護検束スルコト」、「朝鮮人ノ保護ヲ確実ナラシムル為其移動ヲ阻止スルコト」、「内鮮人相互ノ融和ヲ図ル為朝鮮人労働者ヲシテ社会的事業ノ開始ヲ勧誘スルコト」を決定し(警視庁,1925)、同日午後3時には流言の防止と朝鮮人保護を各署に指示している。ただし、警察の保護は行政検束による連行・収容という強制性を伴ったものであり、また警察によって連行・護送中の朝鮮人が群衆から暴行を受け、あまつさえ殺害される例もあった。なお、朝鮮人に対する暴行に鑑みて、9月4日、警視庁特別高等課内鮮係は朝鮮人の上京を阻止するよう朝鮮総督府に打電する一方で、同8日には朝鮮人の帰国を阻止するよう管下警察署に通牒している(姜徳相・琴秉洞,1963)。
 地震と火災によって人々の不安が高まり、また通信機関の断絶によって正確な情報伝達が妨げられる中、流言蜚語対策は重要な課題とされた。9月1日、警保局と警視庁は協議の上で、人心の不安を増大する記事の掲載を控えるよう各新聞社に懇談書を発した。警保局では図書課新聞係が全国の新聞記事の取締を統轄し、警視庁では総監官房特別高等課検閲係が内務省の指示を受けて府下の出版物を取り締まり、具体的には、各新聞社・出版社の状況調査、記事の差し止め、原稿の内閲、発売頒布の禁止、差押の執行、納本の管理などを行っている(警視庁,1925)。また、同2日から事務局情報部が毎日2回「震災彙報」を発行して市中に配布した。
 しかし、被災地では朝鮮人来襲をはじめとする流言蜚語が飛び交い、自警団による朝鮮人への迫害が横行したため、警察は対策を迫られた。警視庁警戒本部は、流言蜚語の発生時点を9月1日午後1時ごろとしており、同日午後3時には「社会主義者及ビ鮮人ママノ放火多シ」との流言が府下で確認された(警視庁,1925)。同日午後8時、小松川警察署は朝鮮人による暴行の報に接し、迫害を受けた朝鮮人を同署に収容した。翌2日にかけて「不逞鮮人ママノ来襲アルベシ」との流言が各署で確認されたため、赤池は同日午後3時、流言防止の宣伝、流言の調査と流言者の取締、応急警戒、朝鮮人の収容・保護、自警団の善導、及び武器携帯の禁止を各警察署に指示した。
 反面、警戒本部も「不逞鮮人ママ」襲撃の可能性を考慮し、警察官を各地に派遣するとともに、偵察班・諜報班に真相調査を命じた。翌2日午後5時には「不逞者」の取締を各署に指示している。並行して、警視庁は9月2日から宣伝隊を組織して人心安定を講じた。翌3日午前6時には、「不逞鮮人ママ妄動ノ噂盛ナルモ多クハ事実相違シ訛伝ニ過ギズ、鮮人ママノ大部分ハ順良ナルモノニ付濫リニ之ヲ迫害シ、暴行ヲ加フル等無之様注意セラレ度」とのビラを市内に撒いて朝鮮人に対する暴行の抑止を図っている。先に述べたように、3日午前9時の事務局警備部打ち合わせも「出版物及印刷所ノ取締ニ関スル件」、「宣伝ノ取締並ニ宣伝ノ実行ニ関スル件」などを協議し、宣伝ビラの配付を決定した。
 しかし、警視庁も一部朝鮮人の不法行為を完全には否定せず、朝鮮人に関する流言は容易に解消されなかった。朝鮮人を保護する警察官に対して反発する群衆もおり、9月4日には「警察官に変装せる鮮人ママあれば注意すべし」との流言が確認されている(警視庁,1925)。翌5日、山本内閣は朝鮮人への暴行を戒める告諭を発したが、朝鮮人に対する虐待の事実は秘匿された。以後、人心は漸次安定に向ったものの、その後も流言蜚語は残留した。
 神奈川県では、9月1日午後から、海嘯の襲来、大地震の再起、不逞の徒・解放囚・社会主義者の暴行、朝鮮人の襲来などの流言が伝播した。朝鮮人の襲撃に関する流言は、1日夜7時に山手本町警察署管内で確認され、翌2日にかけて県下全般に広まった。流言蜚語の取締として、警視庁は警察犯処罰令(第2条第16号「人心を誑惑せしむる目的を以て流言を為すもの」)を適用し、9月2〜7日の間に流言者32人を検挙した(説諭12人、拘留20人)。また、朝鮮人殺傷など流言蜚語による混乱を重く見た田健治郎司法大臣ら司法省の主導により、同7日、安寧秩序を紊乱する事項の流布、流言浮説、犯罪の煽動に厳罰を科す緊急勅令「治安維持に関する罰則の件」(治安維持令)が公布された(「田健治郎日記」,1923年9月3〜7日条,荻野富士夫,1980)。内務省が戒厳令や現行制度の拡大適用によって震災時の混乱に対処しようとしたのに対して、司法省は新たな治安立法を志向したといえる。もっとも、司法省は同令の適用について慎重に配慮し、1923(大正12)年11月30日までに15件(起訴9件、不起訴6件)にとどまった(吉河光貞,1949)。被災地以外の府県でも、新聞報道や避難民を通じて被災地の状況が伝えられた。
 震災に関する報道は適宜規制が行われるほか、社会主義者・各種要視察人・朝鮮人を行政検束し、要注意出版物を監視した。9月3日、大阪府警察部は主要新聞社を召集し、「人心を惑乱せしむる惧ある事項」の掲載を控えるよう懇談した。同日、大阪府は、通信機関が復旧するまで知事限りで出版物の禁止差押処分を行う旨を内務省に稟伺している。内務省も同日付で地方長官に処分を委任し、同5日には朝鮮人暴動に関する記事、経済界に混乱をきたす記事、内地人―朝鮮人相互の反感を生じる記事(朝鮮人殺傷を含む)の差し止めを命じた。ただし、通信機関の断絶によって同3〜6日にかけて中央の指示が届かず、地方長官の判断で差し止めを行う例もあった(「記事取締に関する書類綴」,松尾章一監修,1997)。
 また、震災に関する情報は海外にも伝えられたことから、政府は情報統制を講じた。朝鮮では朝鮮人の暴動を報じる新聞記事が散見されたため、後藤文夫警保局長は、9月7日までに震災下の朝鮮人に関する一切の記事(朝鮮人に対する迫害を含む)の差し止めを丸山鶴吉朝鮮総督府警務局長に指示した(松尾章一監修,1997)。諸外国に対しても同様に情報の差し止めがなされ、事務局警備部は「赤化日本人及赤化朝鮮人」が暴行を煽動した旨を海外に宣伝するよう、協定を交わしている(「朝鮮問題に関する協定」,琴秉洞,1991)。9月18日、東京地裁検事局は、戒厳令施行地域と群馬・栃木両県での朝鮮人の犯罪、朝鮮人に対する犯罪の記事を差し止めた。また同20日、陸軍省は甘粕事件の責任者処分を発表し、陸軍発表以外の記事と「社会主義者行方不明に関する記事」を差し止め、亀戸事件も同日差止となった。10月8日に甘粕事件、同10日に亀戸事件の差し止めが解除され、同16日に王希天事件の差し止めが緩和された(「行方不明」として報じる)。朝鮮人殺傷事件の差止解除は、同20日のことである。9月1日から11月9日にかけて、新聞紙の発売禁止差押処分の全国総数は924件(同一記事の転載含む)、うち朝鮮人に関する記事は554件を数えた(松尾章一監修,1997)
※内閣府「災害教訓の継承に関する専門委員会報告書/1923関東大震災(平成18年7月)」より抜粋引用 

「鶴見歴史の会」の林さん(左の写真)は、2011年8月19日の毎日新聞で、「震災後に『朝鮮人が襲ってくる』という流言が流れ、横浜市内でも虐殺が起きた。大川署長は群集に『デマを信じるな。彼らは労働者であり、被災者だ』と体を張り、朝鮮人らを守った」と説明。「東日本大震災でも風評被害が出ているが、46歳の大川署長は日ごろから管内の朝鮮人労働者の実態をよく知っていたので『暴徒ではない』と冷静に判断できた」と指摘した。現在でも鶴見区民の約28人に1人は外国人で、林さんは「大川署長の言動に学び、外国人との多文化共生を進めるうえで人権問題を大切に考えてほしい」と呼びかけている。
私と話した時「大正に入り,鶴見臨海部の埋め立てが始まり,京浜工業地帯形成期の大正9年(1920)前後から,潮田地区には朝鮮半島や,沖縄出身の労働者が多く住むようになった。その実態を知悉していた大川署長だからこそ貫徹できた行為であった。そしてあの当時はまだラジオもなく、情報元は新聞でした。それが震災で被災地の新聞社は一切発行不能状態。大変な地震の恐怖、さらに余震が続き不安な心理状態の中で正確な情報が入らず、デマや流言蜚語が独り歩きしてあちこちで虐殺が起こってしまった。残念なことです」と語っていた。

 大地震のすさまじい揺れ、その後の大火、揺れ続ける余震。そうした恐怖、不安、混乱の中、まことしやかに流されるデマや流言蜚語で一層恐怖に取りつかれた人々は平常心を失いパニック状態に陥っていた。停電でラジオは聞こえず、東京の新聞社はほぼ全滅。正確な情報の受発信ができない状態であった。交通通信が途絶した中では東京や横浜の市民でさえ、眼前の惨害の他は何が起きているか全くわかっていなかったようだ。そんな中で首都圏以外の地方新聞には未確認情報や誤った憶測記事及び伝聞記事が掲載され、それが逆流して被災地に伝わりさらにデマを信じさせ、恐怖に拍車をかけていったように思われる。内務省社会局発行の「大正震災志」には次のような記事が紹介されている。
★福岡日々新聞
 火事から遁れて来た人々の談に依ると品川は海嘯(つなみ)の襲来に遭うて全滅したとこのとである(長野発電)
★伊勢新聞
 八田鐵道省旅客係長の談に拠ると四日私が東京を立つ前に衛戍総督に聞いた處であるが神田の神保町から神田橋の間だけで死人が一萬人くらいあるだろうとのことです。
★大阪毎日新聞
 東京市は下谷谷中の一部を残して尚盛んに燃えつつあり宮城も尚焼けつつあり。
★伊豫新報
 東京刑務所の在檻囚を解放した。
★伊豫新報
 麻布聯隊一個小隊は横濱方面より隊伍組み進行して来た四百名の鮮人と衝突し激戦の結果少数にて全滅した依って更に一個小隊を派遣したが其の後の状況不明。
★伊勢新聞
 「数百の不逞鮮人隊伍を組みて蜂起暴戻」二日午後五時大森方面より約四百名の不逞鮮人隊伍を整へて前進し横浜に現はれ更に隊伍を整えて東京方面に向ひ進行し来り我が防禦軍たる歩兵一小隊と衝突し彼我の間に戦闘を開始したが一小隊では不利にして苦戦の結果麻布聯隊より更に一個中隊の応援隊を出動せしめ激戦を交へたるが鮮人の数は約一千名と算せらる(仙?電話)
★臺灣日々新聞
 九月一日午前六時富士山爆発したるものの如し。
★福井新聞
 諸島海に没す、何処へ隠れたやら(宇都宮電話)
震災から二日目、1923年9月3日山形県「荘内新報」号外
震災から二日目、1923年9月3日山形県「荘内新報」号外
新潟県下越新報・1923年9月3日

  
自警団などの殺害からの保護を目的として、多数の朝鮮人や中国人が千葉県習志野収容所等に収容された(2万人以上ともいわれる)。左上の写真は軍隊に守られ東京・須田町を行く帰国を希望した朝鮮人の方々。右上の写真は地方の自警団といわれる。
自警団
 先行研究では、関東大震災時の自警団を、
(1)流言と無関係に自然発生し、火災・盗難を警戒したもの
(2)流言に煽られて朝鮮人を警戒するためにつくられたもの
(3)官憲の要請でつくられたもの
(4)震災以前から地域有力者により組織されたものの4種に分類している(山田昭次,2003)。
 1918(大正7)年の米騒動後、警察は「警察の民衆化」を掲げ、人事相談や各種行政サービスを実施して民衆との融和と相互理解に努めた。同時に、警察は「民衆の警察化」を掲げ、各地の住民を指導・勧奨して「自衛団」を組織させた(大日方純夫,1993)。「自衛団」は警察と連繋して地域の安全と防犯を担い、地域住民による自発的な秩序維持を期待したものであり、東京、神奈川、埼玉、千葉でも震災以前から組織された。震災発生後に組織された自警団については、上記のように、震災初期の防犯・防火を目的とした自然発生的なもの、朝鮮人の流言蜚語を受けて警戒を図ったもののほか、警察の要請・指示があったとの証言が存在する(山田昭次,2003;姜徳相,2003)。
※上の写真は、鎌倉における軍人分会・消防組・青年団三団体の仮設事務所(鎌倉市中央図書館蔵)
 しかし、震災後、警察は自警団の組織に関して言及を控え、事実上警察の関与を否認した。警視庁は、震災以前にも「自衛団」が組織されていた点を認めた上で、自警団発生の理由として、警察力が一時的に欠如したこと、「鮮人ママ来襲の流言」が伝播したことを挙げている。また、自然発生した自警団が2日午後以降、朝鮮人来襲の流言を受けて迫害に及んだとの見解を示し、警察と自警団の暴行との因果関係には触れていない(警視庁,1925)。
 神奈川県では、9月1日夕刻以降に自警団の発生が確認されている。鎌倉郡戸塚町では、火災・盗難の予防、匪賊の警戒を目的として青年団、在郷軍人他有志が自警団を組織し、警察署の指揮を受け、団員は護身用の武器を携帯して午後6時から午前5時まで警戒にあたった(神奈川県企画調査部県史編集,1974)。ただし、同県警察部は、自警団が何らの準備なく組織され、適切な指導者を欠いていたと評している(神奈川県警察部,1926)。
 警視庁は9月2日午後3時、流言の防止、自警団の善導、自警団の武器携帯の禁止を各署に指示した。翌3日早朝には、宣伝ビラで朝鮮人への暴行を禁止し、不穏な点があれば憲兵・警察官に通報するよう公告した。同日の事務局警備部打ち合わせは、自警団の不法行為を認識し、自警団を警察・憲兵の指揮監督下に置いて統制する旨が決定された。警視庁も同日、警務部長名で自警団の武器携帯・誰何・検問の禁止を指示している。9月4日の事務局警備部打ち合わせは「民衆の凶器携帯を禁止する事」を決定し、翌5日には自警団を警察・軍隊の指揮監督下に置いて掌握すること、活動を近隣の盗難・火災の警防に限ること、武器携帯を禁止すること、自警団を速やかに廃止するよう懇諭することを決定した。同日、赤池警視総監は「自警団ノ取扱ニ関スル件」を通牒し、自警団を許可制にして警察署に届出させ、憲兵・警察官が厳重に監督するよう指示している。この間、自警団を抑制しようとする警察官に対して自警団員が反抗、抗議する事例もあった。
 9月5日付で警視総監となった湯浅倉平は、翌6日に告諭、同14日に所感を発表して自警団の沈静化を求めた。だが、同16日の警視庁の調査では、府下の自警団は市部562、郡部583を数えていた(警視庁,1925)。同20日の戒厳司令官命令第5号により、自警団の取締は警察の管掌下に置かれ、10月1日、自警団員の犯罪の一斉検挙が開始された。同4日、湯浅は「自分は自警団の設置を奨励したり之に依頼する心持は少しもない」との所感を表明し、同日付で自警団の強制加入の禁止、警戒区域の限定、届出外の経費徴収・寄附勧誘の禁止、武器携帯・暴行脅迫に対する取締を各警察署に命じた。警視庁監察官の田辺保皓は震災後の回顧で、「自警団取締方針」として「警視庁は自警団に頼つて秩序維持を期待せざること」を第一に挙げている。田辺の自警団に対する評価は総じて冷淡であり、警視庁は当初から自警団の組織化に消極的だったとの見解を貫いている(『自警』,1923)。以上のように、警察が自警団への関与を否定する中で、民間からは当局の責任を追及する声があがった。自警団員からなる関東自警同盟は、政府が流言発生の責任を民衆に転嫁した点、警察が自警団の犯行を放置した点、警察官も暴行に加担した点を批判した。また、帝国大学教授の上杉慎吉は、警察官が震災当時に流言を宣伝した点、市民に自衛自警と武器携帯を勧誘した点、被害を予防し得なかった点で警察の責任を追及した。自由法曹団の布施辰治も、警察の教唆、指揮による朝鮮人の殺害を糾弾している(姜徳相・琴秉洞,1963)。
 他方、自警団の暴走を平時の日本人や警察の性格に求める意見もあった。長谷川如是閑は、在郷軍人会や青年団が「軍国的動作」を行動様式とした結果、自警団も「軍隊的行動」を連想し、朝鮮人虐待に至ったと指摘した(『我等』,1923;宮地忠彦,2005)。また、吉野作造は、国家が日頃より「服従道徳の涵養」を強いた結果、国民に不満が蓄積し、自警団も「力の玩弄」に走ったと主張している(『中央公論』,1923;吉野作造,1996;宮地忠彦2005)。上記の論者に共通するのは、警察又は国家が自警団の行動を直接的・間接的に正当化し、過剰な行為を助長したとの指摘である。警察が自警団の統制と武器の携帯禁止を決定したのは、警視庁が9月2日午後、事務局が同3日午前であり、1〜2日の段階では自警団の存在を黙認・容認していた模様である。また、警察も2日時点では流言蜚語の真偽を計りかねていた。警察官が住民に自衛・自警を呼びかけ、衆目の中で朝鮮人を検束・護送し、民衆による朝鮮人への虐待を抑止し得なかったことは、警察が自警団の行動を容認したとの印象を人々に与えたことだろう。なお、警察関係者も自警団の効能を一定程度認めている。震災以前から「自衛団」の組織化を提唱していた警察講習所長の松井茂は、震災時の自警団の防犯・防火活動、衛生救護、交通整理を高く評価した上で、朝鮮人への暴行に至った理由を平素の「自治的訓練」の不足に求め、今後一層の組織化を提起している(『地方行政』,1923)。もっとも、震災以後は一般民衆よりも公設消防組を機軸とした災害予防対策が推奨された模様である(大日方純夫,2000)

※内閣府「災害教訓の継承に関する専門委員会報告書/1923関東大震災(平成18年7月)」より抜粋引用

★デマ・流言蜚語・朝鮮人虐殺について「大正震災志」に書かれていたこと
 震災後2年半を経た1926年2月28日に内務省社会局が発行した「大正震災志」には次のように書かれている。
「流言蜚語に関してはいづくより傳はったか、固より混乱の當時であったから、甚だ確かではないが、此に警視庁内自警会より発行する雑誌”自警第五巻第五十一號より『不逞鮮人襲来す』と題する一項を抜粋して、姑らく當時の事情を推察するよすがとする」と、次のように引用している。「餘燃熄まず、然も『更に強震あるべし』乃至「海嘯来る恐れあり』『不逞鮮人襲来す』等の流説盛に行はれ、人心の動揺其の極に達す。警戒班在りては此の間に於ける秩序維持の至重至難なるに鑑み、一方市内厳戒の方途を講ずると共に、他方之等の流言浮説を取り締まり、努めて人心の鎮静を計らんことを期せるも、通信の方法絶え、各方面の真状判明せざるを以て手配上至大の困難を感ぜり。
 本日(9月2日)午前中より昨日来の火災は多くは不逞鮮人の放火によるものなり、若しくは不逞鮮人不穏の計画を策しつつあり等の風雪道塗に盛に喧伝せらるるに至るも、未だ確報に接さざるを以て、浮説益々甚だしく、各所に於て内鮮人間に争闘を惹起しつつありとの報を受くるに至り、午後三時頃、富阪署に於ける暴行放火鮮人数名検挙せるの報に接す。官房主事、同署に急行す。之を乱打しつつあり、或は井戸に毒薬を投入せるを発見追跡中なり等の報告あるに至る。次で午後四時頃大塚署長より特使を以て、『只今不逞鮮人大塚火薬庫襲撃の目的を以て同火薬庫附近に密集し来りつつありと人民よりの訴に接す。萬一に備ふるため、至急応接派遣を乞う』旨の通報に接し、事態容易ならざるを認め、不取敢同署より司令部に召集中なりし警部補巡査十五名を同署に帰還せしめ、尚此旨戒厳司令部に通報したり。茲に於て司令部は鮮人に対し、厳重警戒を要すと認め、同五時各署に対し鮮人の行動を警戒すべき様命令を発せり。”鮮人中不逞の擧に次で放火其他強暴なる行為に出づるものありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり、就ては此際之等鮮人に対する取り締まりを厳重にして警戒上違算なきを期せられるべし”
 同六時頃に至り渋谷署長より『銃器凶器を携へたる鮮人二百名、玉川二子の渡を渡りて、市内に向かって進行しつつありとの流言あり』次で世田谷署長、中野署長よりも同様流言に関する報告あり、之に遅るる約十分にして、品川署長より『人民よりの訴へに依れば、銃器を携行せる鮮人約二百名、仙?坂に現はれ、熾に暴行略奪を逞しうし、自警団と交戦中なりと、所長は萬一を警戒するの為めに署員を率いて同方面に向ひつつあり』との報あり。之に類する流言蜚語に関する申報、一般民間よりの訴出切りに至り、或いは目黒火薬庫附近にも数百の鮮人現はれ、軍隊と対戦中なりとか、或いは四谷に於て爆弾を投下せる鮮人を逮捕したりとか、或いは玉川沿岸にて民家を焼き払いつつあり、其他随所に拳銃刀剣を携帯せる鮮人現はれ危険此上なしとの流言の飛報あるのみならず、犯人として鮮人を司令部に逮捕引致するも頗る多く、日比谷方面に於ても『不逞鮮人と覚しきもの出没し丸の内避難者中に多数潜入の模様ある』趣の流言に接し、渋谷、世田谷、品川等の各署に対しては萬一事態容易ならざる場合に至らば、署員を集中して沿道を警戒すべきを命じ、尚愛宕署外数署を散乱せしめず、要所に集中して萬一に備ふべきを命じ、尚錦町・西神田・新場橋・北紺屋の署員を招集し、丸の内一帯の警備及び覺方面への警戒応援に充當せしめ、同時に司令部に応援として召集したる、四谷・神楽坂署員も亦其署に帰還せしむ。盡し未曾有の大惨害に逢着し、関東一帯の交通全く途絶し、電燈はなく、眞に暗黒なる帝都に於ては随所より至る流言蜚語も時として眞理の如く人の心理を支配し、又流言蜚語に対しても之に対する策を講ぜざるを得ざる實情なりし。
 同七時頃、地震再来、鮮人襲来の流言多く、人心恟々として丸ノ内・日比谷公園附近の避難民は第二の避難地を求むべく大混乱の状にあるの報に接したるを以て、己に多数の軍隊出動し居ることなれば危険なきを以て安静すべき旨極力宣伝に努む。然も極度に興奮せる民衆は各自皆戎器凶器を提げて自衛に任じ、一般通行者を査問し、盛に鮮人を捕獲し本部に拉致し来るの状況にして、同夜より三日払暁に掛け、警戒員及之等民衆の手により本部に同行したる者百六十余名の多きに達せり。之等は一先づ裁判所の留置場を借受け収容することとし、早稲田及び新場橋署員をして之が看守勤務に応接せしむ。
 各方面の余燼今尚闇夜を照し、路上には兇器戎器を提げ殺気立ちて警戒に任じ居る壮者の喧騒と、地震再来と鮮人襲来に脅かされたる老幼婦女子の泣き叫ぶ悲鳴と相交り、實に凄惨たる光景を呈せり。深夜に至りては自警団の為、自動車の通行すら全く阻止せらるるに至る。尚鮮人中警察官に変装せる者ある旨風評せられ、伝令任務の警察官に対し、民衆に於て査問を行ふものすらあるに至れり。
 二日戒厳令は布かれたが、民衆の自警団は至る處に設けられ、刀を帯び、棍棒を携へ、関門を作りて通行人を誰何し、朝鮮人を迫害するのみならず、神経興奮の極。無辜の民を殺傷するものさへ少からず、物情騒然として殆んど無警察の観があった。仍りて九月三日、警視庁は左の如く一般に公告した。
ー昨日来一部不逞鮮人の妄動ありたるも今や厳密なる警戒に依り其の跡を絶ち、鮮人の大部分は順良にして何等兇行を演ずる者に無之に付濫りに之を迫害し暴行を加ふる等無之様注意せられ度、又不穏の点ありと認むる場合は速に軍隊警察官に通告せられ度し。−
 尚各警察署長に対しては、「鮮人に対する反感益々甚しく理由なき暴行を加ふる者頻出の状況に付此際鮮人に対しては極力保護を加へ可成一個所に収容し、安全の地域に置かるる様努力せらるべし」と令し、尋いで左の命令を発した。「今後の警戒は専ら警察官及軍隊之に當り、在郷軍人団・青年団等には専ら救護事務に當らしむると共に軍隊警察官以外の者に短銃・刀剣・其他戎器兇器を携帯せしむるは避難民相互に於ける争闘殺傷其他頻々として弊害少なからざるに付軍隊と協力し、之が携帯を禁じ、肯ぜずして携帯するものあるときは領置を為す等相當なる措置を講じ、警戒上遺憾なきを期せらるべし」
 鮮人保護に関しては警察官の苦心は並々ならず、通信途絶の結果、各署の保護状況は全く不明であったが、九月四日早朝、市内西部淀橋警察署外二十四署に就いて調査した総数は左の通りである。(九月五日水上警察署外十五署、その後小松警察署外九署が追加された)
留置種別   
 収容鮮人数  被疑者  被護者  計
 本庁=294
淀橋外二十四署=2,017
6
122
288
1,995
294
2,017
水上警察署外十五署=1,222 37 1,185 1,222
小松川警察署外九署=1,689     1,689
5,222 165 3,468 5,222名
 である。以上の合計は五,二二二に達し、其後各署の収容は増加して、九月六日頃の総数は六,一一八の多きに上った。被疑者約百六十名の内には取調の結果、拘留に処せられたのが六十一名あった。此等収容鮮人中には学生あり、労働者あり、行商人あり、婦女小児も之に交じって居り、其中には日本語を解するものも解せざるものもあって、雑然喧騒を極めて居た。然し人心は中々鎮静に帰せず、鮮人に対しては恐怖若しくは憎悪を以て之に臨み、之を保護する警察官に対して反感を有するものさへあったので、小松川署の如きは逸早く軍隊に交渉して五日より十日に亘り収容鮮人を盡く千葉習志野に移送し、亀戸署・寺島署も亦之に倣ひて七日八日の両日に其大部分を移送し、警視庁は九日早朝其収容に係る鮮人三百五十一名を、青山署其他より依嘱の百八十七名とともに騎兵第十六聯隊に引継ぎて、同所に移し、他の各署は事宜に応じて或いは解放し、或いは収容して、九月十日の総数は習志野移送の三千五十人を除いて総数三千百七十七人であった。其後人心の平穏なるに従ひ、各署は再び解放を開始し、九月十八日に於ける総数は一千九百八十三人となった。之より先き九月十一日、鮮人を目黒競馬場に収容したが、警視庁の鑑識課長及目黒勤務員が誤解を解くに努めた結果、前日の反感は却って美しい同情となり、目黒町内自警団消防組合等の各団体より続々慰問品の寄贈ありて鮮人は歓喜し、或いは感泣するものさへあり、保健衛生も亦遺憾なることを期した。九月二十五日には、朝鮮総督府より鮮人引取の交渉ありて、目黒収容所の鮮人を引渡し、各署に対しても被疑者を除き、差支なきものは之を総督府に引渡すべき旨を指示したから、九月二十五日には各署に残留するもの百二十四名となり、其内六十一名の拘留者を除くと、残余は六十三名となり、鮮人の収容事務は此に一段落を告げたのである」


関東大震災の遺骨が安置された東京都立横網町公園の慰霊堂横にある「追悼 関東大震災朝鮮人犠牲者」の碑
石碑の前には「この歴史 永遠に忘れず 在日朝鮮人と固く手を握り 日朝親善 アジア平和を打ちたてん 藤孝成志」が刻まれている
★都立横網公園のれている「慰霊 関東大震災朝鮮人犠牲者」の脇にある説明版の文章
一九二三年九月発生した関東大震災の混乱のなかで、あやまった策動と流言蜚語のため
六千余名にのぼる朝鮮人が尊い生命を奪われました。
私たちは、震災五十周年をむかえ、朝鮮人犠牲者を心から追悼します。
この事件の真実を識ることは不幸な歴史をくりかえさず、
民族差別を無くし、人権を尊重し、善隣友好と平和の大道を拓く礎となると信じます。
思想、信条の創意を越えて、この碑の建設に寄せられた日本人の誠意と献身が、
日本と朝鮮両民族の永遠の親善の力となることを期待します。
一九七三年九月
関東大震災朝鮮人犠牲者
追悼行事実行委員会

横浜市西区・久保山墓地にある「横浜市大震火災横死者合葬之墓」
関東大震災で横死した無縁者を合祀した墓・横濱を一望にした場所にある
大震火災横死者中ノ無縁者ニ對シ 本市ハ曩ニ合葬ヲ行ヒ墓碑ヲ建設
セルカ其後忝モ皇室ヨリ金七萬五 千圓ノ恩賜ニ浴シ政府亦一般義捐
金ノ中ヨリ金二萬圓ヲ交付セラレ タルヲ以テ茲ニ聖旨ヲ奉體シテ合
祀靈場ヲ新設シ且永久ニ祭祀ノ途 ヲ講スルコトヽナセリ之レ一ニ優
握ナル天恩竝一般ノ深甚ナル援護 ニ依ルモノニシテ枯骨惠澤ニ霑ヒ
幽魂永ニ安慰ヲ得ヘク加フルニ餘 榮ノ大サルハ寔ニ感激ニ勝ヘス
今茲竣工ニ際シ鐫刻シテ仁恩ヲ傅 ヘ併セテ英靈ヲ弔フ
 大正十五年九月一日 横濱市

横浜市西区久保山墓地・関東大震災合祀之墓の隣にある「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」
この慰霊碑は関東大震災時に朝鮮人の虐殺を目撃したという日本人が1974年に建てたといわれている

横浜市南区宝生寺にある「関東大震災 韓国人慰霊碑」
 在日朝鮮人救済団体の愛隣園を主催する李誠七氏が関東大震災後、虐殺された朝鮮人の供養を依頼したところ、多くの寺で断られたが宝生寺の当時の住職が引き受けてくれ、大正13年から毎年9月1日に法要が営まれてきた。碑の裏には「労働市場を求めて来日関東一円に在住した韓国人が大正拾貮年九月壹日正午襲った関東大震災に因る直接又は間接の被害を受けて空しく異国の露と消えたこれらの怨霊は永いこと忘れ去られていたが第二次世界大戦の終結後社会事業家で横浜在住の故李誠七氏の努力と当時の住職故佐伯妙智先生の好意によりこの地に鎮魂以来毎年九月壹日を期して民団神奈川県地方本部主催で慰霊祭を挙行して来た。紀元一九七十年九月壹日例祭の折張翼田炳武鄭東仁氏が中心に発起人一同の賛同を得て本県在住同胞有志の浄財の寄付と現住職佐伯眞光先生の土地提供の好意を得て幸い茲に建立永遠に関東大震災による韓国人怨霊の冥福を祈るものである」

東京都墨田区八広にある「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」
下の写真は碑の裏側に刻まれた言葉
下の写真は追悼の碑の横に掲げられたプレートの説明書
 

千葉県船橋市立馬込霊園に設置されている「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」
この慰霊碑は船橋市本町(現在のJR総武線船橋駅付近)にあったものを1963年に現在の馬込霊園に移設
移転の際に発掘したところにおよそ百柱の遺骨が出てきたという

千葉県八千代市高津・観音寺にある「関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑」
下の写真は慰霊の碑の横に建てられた「関東大震災韓国人犠牲者慰霊詩の塔」
「関東大震災韓国人犠牲者慰霊詩の塔」の横に刻まれた詩文

関東大震災における朝鮮人虐殺事件の犠牲者数
関東大震災・朝鮮人虐殺事件の犠牲者数には諸説がある。当時の日本政府・司法省の調査で233人、政治学者・吉野作造氏の調査では2,613人、上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長・金承学氏の調査による6,661人等がある。最も多くの犠牲者を見積もったのは1959年・大韓民国政府の公式発表で「数十万の韓国人が大量虐殺された」と主張したが具体的根拠は示されていない。
内務省警保局調査(「大正12年9月1日以後ニ於ケル警戒措置一班」)では、朝鮮人死亡者231人・重軽傷43人、中国人3人、朝鮮人と誤解され殺害された日本人59人・重軽傷43人となっている。
 なお、当時の警察は、朝鮮人や中国人などを襲撃した疑いで日本人を多数逮捕している。殺人及び殺人未遂・傷害致死・傷害の四つの罪名で起訴された日本人は362名に上る。しかし、そのほとんどが執行猶予となり、福田村事件では実刑となった者も皇太子(後の昭和天皇)ご成婚で恩赦となった。自警団が本格的に取り締まられるようになるのは10月で、解散が命じられるようになるのは11月のことである。
 政府はこうした混乱や拡大防止のため、朝鮮人が起こした事件の報道を一定期間禁止したが、10月21日の時点では、すでに取調べが済んで起訴された朝鮮人による事件は十数件に上り、その他治安警察法違反・窃盗・横領で起訴された朝鮮人は23人いた。
吉村昭氏は「関東大震災」(1973)の中で「関東大震災での朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格を持つ。人々が大災害によってその大半が精神異常をきたしていた結果としか考えられない」と述べている。歴史学者・鈴木淳氏は「関東大震災報告書・第二編」の中で「当時、日本が朝鮮を支配し、その植民地支配に対する抵抗運動に直面して恐怖感を抱いていたことがあり、無理解と民族的な差別意識もあったと考えられる」と書いている。
※福田村事件/関東大震災発生から5日後の1923年9月6日、混乱のなかで香川県の被差別部落出身者が千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)三ツ堀の利根川沿いで地元の自警団に虐殺された事件。被害者は香川県三豊郡の薬売り行商人15名で、そのうち妊婦や子供を含む9名が犠牲になった。加害者は福田村及び隣接する田中村(現柏市)の自警団員8人が殺人罪に問われ懲役3〜10年の刑を受けたが、大半は昭和天皇即位などによる御社で釈放された。事件の中心人物は出所後村長となり、市町村合併後は野田市議となった。

繰り返してはならないこと
 関東大震災で平和なまちが暗転し破壊・焼け野原となり、多数の人々が無残に死んだ。その混乱に拍車をかけたデマ・流言蜚語による朝鮮人虐殺、また混乱に乗じた社会主義者や労働運動指導者の殺害なども、決して許されることではない。朝鮮人虐殺は当時の自警団が残忍だったというより、デマや流言に惑わされ、無辜の朝鮮人を曲解し必要以上に朝鮮人を恐れて過剰防衛的な側面もあったと思われる。このサイトのはじめに「関東大震災のちょっといい話」と書いたが、調べれば調べるほど、決していい話ではなく、情けなく、哀しく、やりきれない話である。
 その背景には当時の帝国主義的な世界情勢に便乗した大日本帝国による日韓併合・朝鮮半島の植民地化、その後度重なる独立運動や反日闘争、とくに関東大震災発生の2年半前・1919年3月1日に計画され「三一暴動」・韓国では「三一独立運動」に対する日本の厳しい弾圧などが伏線となっているように思われる。三一運動は瞬く間に各地に広がりデモ行進などがおこなわれていく。日本側は憲兵、警察、軍隊を増強して徹底した取り締まりを強化する。3月〜5月にかけてデモの回数は1,542回、デモ参加者は延べ205万人に上った。運動初期は大都市に集中し主に学生や教師が主体であったが、運動が広がると地方都市や農村などで農民、労働者、商工業者、官僚、両班なども参加するようになる。当初平和的なデモ行進が次第に変化していった。烽火示威、同盟休校、同盟罷業、独立請願、閉店などエスカレートして警察署、村役場、小学校等が襲われ、放火、投石、破壊、暴行、惨殺などが行われるようになっていく。韓国側の「暴徒化した理由は日本側の弾圧が激しくなったための抵抗」とする意見と、日本側の「暴徒を鎮圧するために多少の武力を使用することはどの国でも行われている当然のこと」としている。
 襲撃による日本側の被害は官憲の死者8名、負傷者158名、物的被害は駐在所159、軍事事務所77、郵便局15、その他27か所という。当時上海に亡命していた朴殷植の「韓国独立運動之血史」には、伝聞情報として韓国人の死者7,509名、負傷者1万5,849名、逮捕者4万6,303名、焼かれた家屋715戸、各地で虐殺があったとしている。
 日本の世論は圧倒的に三一運動を暴動とする論調が強かったが、中には運動に同情するものもいたという。こうした弾圧などから一部の日本人の間では、何かきっかけがあれば朝鮮人は国内でも暴発し復讐するのではないかという漠然とした不安感を強く抱いていた。そしてその2年半後に発生した首都圏の大震災。大揺れ、続く余震、大火という混乱と不安におびえる人たちに、デマや流言がまことしやかに浸透していった。大規模災害時における、情報・報道の重要性。恐怖が礼節や理性を失わせる恐ろしさなどの辛く恥ずかしい現実。今後二度と繰り返さないためにも、目をそむけずにしっかりと向き合うことが大切である。
 そして、そんな状況下にあるにもかかわらず、当時の大川常吉鶴見署長が身命を賭して暴民から無実の朝鮮人を守ったことも、哀しい歴史と併せて忘れずに伝え続けてほしい出来事の一つである。

★ほかにも、関東大震災のちょっといい話
日本の災害史上最悪の犠牲者を出した関東大震災。その一方で奇跡としか思えない出来事やほっとするエピソードが伝えられている。2013年9月1日で関東大震災90周年を迎えるにあたり、災害と教訓を風化させないためにいくつかのエピソードを紹介する。
★90年前の「トモダチ作戦」
★町を守り抜いた人々「防火守護之地」
★7万人の避難者の命を守った人々
★被災者に勇気と希望を与えた震災イチョウ
 
2013年夏・山村武彦 関東大震災の概要

リンクはフリーですが、画像等の無断転載はご遠慮願います